維新派“nostalgia”のチケット届く

diary070514.jpg家に帰るとチケットが届いていた。

維新派の新作“nostalgia”である。

昨年は梅田芸術劇場で“ナツノトビラ”を観た。なるほど、維新派とはこういうことをやる集団なのかと思った。劇団といってはいるけれど、いわゆる芝居をやっているという感じはしない。少年少女に扮した白塗りの役者たちが、ステージを縦横無尽に動き回る。劇は多分に断片的だ。ストーリーを追うようにはできてない。

ケチャのようなリズムに分断され意味を失くした言葉、踊りとも芝居ともいい切れない不思議な身体表現。それらはハイコントラストで無機的な舞台美術と相俟って、退廃的な演劇空間を創出している。けれども、匿名的なモノクロームの情景は、同時にノスタルジックな感傷を喚起する。純化された郷愁が全感覚を押し包んでしまう。

こうなると、あとはもう理屈ではない。

ぼくが維新派を観に行くのは感覚を投げ出すためといっていい。ぼくはどうにも言葉に頼りすぎる嫌いがある。言葉というのは型だ。五感が得た情報を言葉に置き換える。それはつまり、自分の型に嵌めるということだ。それもまた快感であり、快感である以上娯楽足り得るのだけれど、そればかりだと煮詰まってしまうこともある。

だいたい、ぼくのような鈍い人間は、自分の型に広がりがない。言葉で解釈した瞬間に多様性は失われ、マンネリと化してしまう。勝手に過去の情報と比較し、系統立ててしまうのである。自然、感情の動きもある程度決まってくる。こうした条件反射的な反応は、脳の癖みたいなものなんだろう。なかなか意識して変えられるものではない。

そして、時折、言語化し辛い表現に触れたくなる。

ぼくはそれほど舞台芸術というものに親しみがない。だから、たまに観る。これがいい。これは普段使わない筋肉を使うようなもので、心地好い苦痛と疲労を感じさせてくれる。ここで言語化可能なのは、表現そのものについてではなく、その表現がぼくに与えた影響についてだけである。条件反射は起こらない。未知の刺激は快楽である。

子供の頃、映画館は非日常だった。テレビで観る映画とはたとえ内容が同じでも、まったく違っていた。小説もそうだ。インクの沁み込んだ紙の束は、小学生のぼくを瞬く間に日常から連れ去ってくれる不思議の国の白兎だった。それが長じるにつれ、快楽は定型化し、刺激は鈍化していった。要するに鈍くなってきた。

毎日をつまらないと思うくらいつまらないことはない。

だから、今年も維新派を観に行くことにした。正直にいえば、昨年観た“ナツノトビラ”は、ぼくが想像していた維新派とは少し違っていた。狭い劇場用にアレンジされていたせいだろう。確かに、あの劇場の限界は超えていたし、その分、演出、美術は精緻を極めていた。けれども、噂に聞いていたスペクタクルは感じられなかった。

今年は大阪城ホールの倉庫に劇場を特設するという。元来のスタイルに近い。これなら昨年とはまた違った側面が見られるに違いない。やはり、型に嵌まらないところから始まった劇団を型に嵌めてはいけない。劇場のための劇場は用意されているという意味で日常に近い。スクラップ&ビルドの劇場空間こそが彼らの本領だろう。

今年はどれだけぼくの感覚を解放してくれるのか。

楽しみで仕方がない。

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