押井守が存在できない映画界はツマラナイ

最初に当然のひと言から。自分に決められるのは、自分にとっての価値だけだ。

「スカイ・クロラ」でひどい目に遭う - 挑戦者ストロング

面白がれる人がほとんどいない。良さを理解できる人が極めて少ない。そういう映画には価値がない。この人はそういっている。なんてツマラナイ意見だろう。その作品を愉しめるかどうかは、どこまでも個人的な問題だ。押井守が「スカイ・クロラ」を面白いと思って作ったなら、押井守に共感できる感性の持ち主がそれを面白がれる可能性は高い。たとえどんなに少数派でも、その事実を以て作品を無価値と断ずることは傲慢だろう。人気のない商業作品は市場価値が低い、という主張なら分からなくもないけれど、自分が愉しめないものに価値はないという暴言には眉を顰めざるを得ない。

リンク先でDersu氏は「こういうクソ映画のせいで映画というジャンルそのものが痩せていくんだよ。」と映画の未来を憂えている。ぼくは別に映画界に通暁しているわけではない。ただ、これは逆なんじゃないかと思う。多くの支持を得られる映画しか作れない。その方が、ずっとジャンルをつまらなくする。ぼくはそう思う。だから、たとえ一般ウケしそうになくても、たとえぼくには理解できないとしても、自分の感性の遥か高みをいくような作品にどんどん出てきて欲しいと思う。ぼくの知らない感性の世界を見せて欲しいと思う。全部が愉しめなくていい。それがジャンルの豊穣だろう。

ただ、映画には興行としての使命がある。それは作品の広義での価値とは関係なく、興行成績という形で問われることになる。これは製作費に直接影響する。押井守のアニメ映画は金がかかる。過去の成功がその金を引き出させる。引き出された金は、過去の成功を考慮して見返りを期待される金である。善意の募金ではない。ここに問題が生じる。押井守の作りたいものが一般ウケしないことは本人が一番自覚している。そういう趣旨の発言もしているはずだ。けれども、興行主は集めた金に見返りを期待されている以上、興収を確保するための手段を講じなくてはならない。つまり宣伝である。

こうして押井作品は大衆映画とはいいにくい内容にも関わらず、それに準じるほどの広告を打たれ、全国ロードショーという身の丈に合わない箱を用意されることになる。そして、Dersu氏のような被害者を量産するのである。つまり押井守の問題は、本来あまりお金にならない作品を、お金をかけないと作れないところにある。これを解決するひとつの可能性は、莫大な制作費の浪費を許す巨大パトロンの出現だ。或いは、製作コストの劇的な縮小技術という可能性もなくはない。いずれにしても、押井作品の魅力があのクオリティに担保されている可能性が高い以上、お金の問題は深刻だろう。

だから映画の豊穣を願うなら、Dersu氏くらいの被害は大目に見て欲しいと、ぼくは思う。

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comment - コメント

仰る通りだと思います。好き嫌いで嫌いなら作り手を貶めるのは方向違いだし、解らなくて怒ってるのならただの負け惜しみです。何れにしてももの作るひとに「作るな」などと言う権限は誰にもありません。危険な発想だと思います。

> 43210さん
まあ、リンク先の人も筆が滑ったというところはあったんだと思います。実際それなりのお金をはたいて観た映画が、(たとえば宣伝で受けた印象に反して)まったく自分にとって理解不能だったりすると、文句のひとつもいいたくなるのが人情ですからね。ただ、ネットはときにこうしたネガティブな声を拡大再生産してしまうようなところがあるので、野暮だとは思いながら苦言を呈したというのがぼくの心情に近いです。自分自身も同じ鉄を踏まないように気をつけないとな、とも思いますし。

冷静で客観的な姿勢に頭が下がります。確かにネット上では対面していれば起こりえないような炎上が簡単に起こってしまいますし、僕も肝に銘じようと思います。ありがとうございます。

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