「善意」を原動力にするのはいいが根拠にする人間は信頼できない

優しいのか厭味なのかよくわからないこんなブログ記事を読んだ。

studygiftの炎上騒動が長期化したのは、善意と誤解の炎上ループにはまってしまったからではないか

善意は人を動かす。もちろん、悪いことではない。ただし、忘れてはいけない。善意で動くことは快楽である。良かれと思ってする苦労は人生の娯楽であって苦悩ではない。有償の愛よりも無償の愛。多くの人の心はそんな風にできている。善意というのは実に低コストかつ効率の良い燃料となって人をどこまでも走らせる。ただし、善意の役割はここまでである。ガソリンを満タンにして走り出した車がどこに向かうかは運転手次第である。どんなにエネルギー効率の良いクリーンなガソリンも、行き先までは決めてくれない。ガソリンの良し悪しと運転の良し悪しは別の問題だ。往来で暴走して人を殺しておきながら、クリーンな燃料で走ってるんだから悪くない、などというのはただの阿呆である。

人は自らの善意がただのガソリンに過ぎない、という身も蓋もない真実を見失いがちである。「トーサンハオマエノタメヲオモッテ…」とは、古典的な迷台詞である。この手の定番コントを演じることで、多くの子供たちが「善意の押売り」という言葉を覚える。そうしていつか、ボランティアだの介護だのといったデリケートな話題に触れる内、恐らくそう少なくない子供たちが善意の難しさや欺瞞について考えを巡らせるようになる。けれども、善意に突き動かされる快楽の誘惑に勝てない、プリミティブな善行による成功体験が忘れらない…ということはあるんだろうと思う。善意が正当性の根拠たり得るかのように振舞う人間は後を絶たない。言い訳に利用したり、偽装したりする人間までいる。

誰かを救いたいという立派な善意を満載して暴走した挙句、その誰かを轢き殺すような事例は、たぶん少なくない。だから、自ら善意に突き動かされようとするときこそ、向かう先の正しさをいつも以上に慎重に顧みなければならない。たとえば、怒りに任せて行動することを諫める人は多い。それはそうだ。強い情動に従って動くとき、人は大抵冷静ではない。これは何も負の感情に限らない。「オレは良いコトをしている!」という感情は、やっぱり人をハイにする。冷静さを欠いた上に、善意から発した行動、即ち、善行である、というあまりにも素朴な錯誤までついてくるのだから、本当にどうにもならない。だから、オレの善意を非難するなと怒るような人間は信頼に値しない、とぼくは思う。

いつか思慮の浅い善意がネットの波に乗って、虚しい無差別テロを引き起こさないことを願う。

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