楳図かずお邸訴訟は完全に大義を失っている

問題は地域の利益から個人の利益へと完全にシフトしていたようだ。

楳図かずおさん宅めぐり住民が提訴 赤白塗装の差し止め求める - MSN産経ニュース
楳図さん宅の外壁撤去に請求変更 住民側 - MSN産経ニュース
完成した楳図かずお邸の外観写真 - MSN産経ニュース

このゴタゴタは2007年8月に端を発する。その時は近隣住民2人が「景観」を理由に楳図邸の建設中止を求め、却下されている。東京地裁の判断は「特別な景観がある場所ではなく、法律上保護に値する景観利益があるとは認められない」というものだった。にも関わらず、同年10月に再び景観を理由に、今度は赤白縞塗装の中止を求めて訴訟を起こしている。その後、提訴の甲斐なく2008年3月には構想通り赤い塔付き赤白縞の邸宅が完成。そこで、件の2人は請求内容を外壁の撤去などに変更し、撤去するまで毎月10万円の支払いを求めて係争続行中…というのが大まかな流れである。

個人的には、発端から完全に言い掛かりレベルの問題だと思っていた。縞柄の建物くらい奇抜というほどに奇抜ではないし、既存の建物でもそれより派手で奇抜なものはゴマンとあるだろう。住宅街にあるセブンイレブンと楳図邸、どちらをより景観的に問題と感じるかは個人の感性による。何も壁面に脳漿やら臓物やらをまき散らした血塗れの美少女が描かれているわけではない。ただ、近隣住民2人の愚かしさとは別次元で、「景観」を錦の御旗にする限り一片の理くらいは認めなきゃいけないだろうな、とも思っていた。景観がその地域に利することもあるし、害をなすこともあるからだ。

代表的なのは観光地の景観で、国内外を問わず住民が観光資源を守るため景観維持に努めているケースは少なくない。そのために税金が使われる場合すらある。また、歴史的価値や観光的価値のみならず、一般の住宅地でも自治体が景観地区に指定し景観を守ろうとするケースはある。住みよい地域だと評判になれば人が集まる。たとえば、一定以上の経済水準が求められるような景観地区を作ることで高額納税者をその地域に誘導することもできる。格差を助長しかねないこうしたシステムの是非はおくとして、地域住民の利益を守るという意味で景観破壊は訴訟対象になり得るだろう。

ところが、(それが本意かどうかは別として)地域の利害を代弁していた近隣住民2人が、とうとう個人の利害だけを訴え始めた。あの建物は「(私にとって)おぞましい」から「(私に)賠償金」を払え、という話に矮小化してしまったのである。1年以上争っていて、苦情を訴える近隣住民が特定の2人から増えない辺りを見ても、この2人が近隣住民の感情を代弁しているとは思えない。要するに、近隣住民の多くはあの辺りの景観に楳図邸が建って壊れるような価値を認めていないんだろう。こうなると、端から個人の感情レベルの問題でしかなかった可能性が高いと思わざるを得ない。

いずれ、落とし所がこれでは地金が出たと思われても仕方がないだろう。


【関連して読んだページ】
痛いニュース(ノ∀`):原告住民「赤い塔の目が点滅を始めた。おぞましい」…楳図かずおさん宅訴訟
景観、住宅地も守るべき 自治体が法的「地区」指定 : ニュース : ホームガイド : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

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comment - コメント

2ちゃんやらその周辺、はてな村なんかではヒステリーババアのトンでも訴訟みたいな論調で受け取られてたんだろうなあ。べつに見廻ってないですが。

「個人の利益」でなぜいけないのでしょう。


現実的な話をすれば楳図の建築を禁止する法規はないのだし、周辺住民は反対運動に加わる面倒さより見てみぬふりをとるでしょう。
現実的に勝ち味が薄いから「愚か」なのか。あるいは味方が少なければその主張はすなわち「ワガママ」なんだということか。
どこからそういう誹謗の文句が出てくるのか私には全然わからない。

現実の力学の場でどっちが勝つかということを離れて、われわれ無関係な人間にとってのトピックは「自宅の外観で奇矯な自己宣伝をすることが許されてよいのかどうか」ということです。
「どうせ日本の“普通”の街に“景観”なんてないんだからさあ」というクソ以下の「民意」を裁判所が裏書したからといって、それはただ法とはそういうものであるというだけのことです。

そこにはあとせいぜいが観光資源の目減り云々というものさししかないのでしょうか。
さて、美意識はどこへいった。

別に大御所の名前出してどうこうしようってことはないですが、たとえば柳宗悦や青山二郎や、べつに誰でも―アレックス・カーさんでもいいけど、かれらの自宅のまん前に楳図がアレを建てだしたらどうなるか。
裸足で飛び出してきて怒り狂うんじゃないですかね。そう信じたい。
まちの景観がどうのという理屈以前に「オレがおぞましいから」と。
美は「歴史」が用意し、「オレ」という結節点で発動します。どっちが欠けてもいけない。

> nbさん
仰る通り、「個人の利益」でいけない理由はありません。そして、その場合は「近隣住民2人の個人の利益」vs「楳図かずおの個人の利益」という構図になります。これは非常に分かりやすいですね。これをワガママと思うかどうかは感想を持つ人間の勝手ですが、この手の訴訟はおよそワガママ対ワガママの闘いといってもそう外れてはいないと思います。ワガママだといえばオバサンも楳図かずおも大差はありません。この前提で争う限り、どちらのワガママの方がより受け入れがたいか、という極めて恣意的な判断でしか決着のしようがないともいえます。
或いは、nbさんの言葉を借りて「近隣住民2人の美意識」vs「楳図かずおの美意識」と置き換えてみてもいいかもしれません。これはさらに困難な構図で、「美意識の是非は決定可能か?」という気の遠くなるような課題に取り組む羽目になります。ぼくとしても、柳宗悦や青山二郎には、もちろん裸足で飛び出してきて怒り狂って欲しいですが(それもその人たちの美意識の表明ですから)、だからといってそのいい分が裁判で受け入れられるべきだとは思いません。その意味では、オバサンのワガママが柳宗悦や青山二郎のワガママに変わっただけで、そのこと自体に大した意味はないとぼくは考えます。
要するに、意識的にしたことではありませんが、ぼくとしてはこの程度の奇矯は無条件に受け入れられる世の中であって欲しい、という個人的な価値観をこのエントリーで表明したことになるんでしょう。まあ、(それが裁判を闘う上での戦略だったとしても)初手で問題の公共性を訴えておきながら、最終的に個人の利益に走った2人の「転向」がぼくの美意識に反したという感情的な理由があることも認めます。

「美意識」の語を挙げたのは双方それぞれが個人としてどうあるかを言うためです。

毎日窓の外が赤白だんだらなんて気持ち悪い、勘弁しろよ。というのは「あたりまえ」の感覚です。
歴史が用意し、その平凡な個人において掬い取られた美意識によるものです。

対するのは「ボクのトレードマークは赤白シャツだから家もシマシマにしてみたよ」という躁病的自己顕示。
ファインアートの「自己表現の尊さ」という部分だけを抜き出した、その退嬰形であり、そこには歴史はない。前衛性すらもない。中空に浮遊する「我」があるだけです。

これらが「相互のワガママ」に置換可能な、完全に相対的なものであるとするならば、その視点には、コモンセンスという観念が完全に抜け落ちている。

あえて極端な例え話をすると、日本では父娘の婚姻や性交は法に明らかに禁じられているだろうが、たぶん恋愛はそうでない。
お隣さんの面前で親子が濃密な「性」のニオイを醸しつつイチャつきあいをやらかしている場合、これをいかに抑止するのか?
おいおい正気の沙汰じゃねえぞ、せめておもてではやめろ。気持ち悪いから・・・という以外の対応は私には思いつかない。
どこからがダメなのかイチャイチャの定義をはっきりしろよ、みたいなのは児童ポルノマンガの件でよくあった論法ですが、そんなのは取り合うべきでない。


裸足で怒鳴り出てきたのが柳宗悦でなく安藤忠雄や高松伸やフンダート・ヴァッサーだったら冷笑するほかありませんが。
君達は彼の兄貴分じゃないかと。
奇矯を許す社会。とはおおいに結構ですが、それは結局電車の中のキチガイを遠巻きに、関わらないように放置する態度でしょう。
なんかワウワウ言ってる彼を理解しようと努め、ただの目立ちたがりの、まがりなりにも正気のバカだと看破すれば、それなりの遇し方があってしかるべきです。

京町家の間にぶったてられたハリボテのバケモノだか宇宙船だかは、純粋に暴力です。
個人とコモンセンスの絆でありインターフェイスたる「あたりまえの美意識」を等閑視し、おおやけの空間に純粋美術の語法をそのまま流用して自己顕示のモニュメントを立てるという暴力行為に対し、やめてくれといえばそれも同じ暴力なのだとすれば。もうここは猿の惑星ですよ。日本という、それなりにはナイスなはずの土地じゃないですね。

本件は日本中で起きている狼藉の、あるわかりやすい雛形だと見ているのです。
それがまかりとおるという実例がいくらでもあるから、裁判そのものの決着には興味はありません。

> nbさん
確かに、法律で禁じられていないから抑止する必要がないというのはあまりに無責任な態度だと思います。ぼくも、自分がおかしいと思うものにはおかしいからやめろといいたいですしね。ただ、ぼくの感覚がいわゆるコモンセンスとどの程度重なり、どの程度乖離しているのかは自分ひとりでは判断できない。たとえば、父娘のイチャイチャは厭だけれど、ぼくがいま住んでいる何の特徴も統一性も美意識も感じない住宅街において、家の向かいに写真で確認できる楳図邸とまったく同じものが建っていても特に不快には感じません。もっといえば、排除する努力は面倒だけれどなければない方がいい、というレベルの嫌悪さえ感じないわけです。でも、これが京都祗園に建つというならもしかしたら反対運動に参加するかもしれません。こうしたぼくの感覚が「あたりまえ」かそうでないかは、結局のところ多数決くらいでしか決められないものでしょう。コモンセンスというものが不変でなく歴史の影響を受けるのなら、今現在、排除可能であるにも関わらず受け入れられているものはコモンセンスに反していないと判断することにそれほど無理はないように思います。たとえば、京都という町は「京都人のコモンセンス」に合わない「よそさんのコモンセンス」に蹂躙され続けてきた、或いは、現在もされ続けている土地だと見ることができると思います。ぼくは近隣に住む者として残念に思うことも多いですが、東京が日本の中心だというコモンセンスが成り立つ世間だからこそ、今のキメラ的京都が現存するんだろうなとは思うわけです。個人的に無粋だと思うことは無粋だと主張しますし、嫌いなものは嫌いだと表明しますが、その感覚が「あたりまえ」かどうかは世間が決めるんだと納得することにしています。

遥か数キロ離れた隣町に住んでて、意図的に見に行こうと原チャなり車なり出したりしない限り目にする機会なんか欠片も無いのに、
「見るとおぞましい」とか言われてもどうしようもないでしょう。

要するに普段目にする機会が全く無い2人だけが騒いでる事例であって、
本物の近隣住民はまったく気にしてないわけです。
みんな大歓迎で受け入れてます。
そういう事実が明るみに出ればそりゃ「ヒスバババのトンでも訴訟」という論調にもなりますよ。

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