たとえ「悪くなくても」犯されるという問題

これはもう正論中の正論だろうと思う。

minori kitahara column: 京都教育大学の集団強姦事件

セックスしたい女性は「したい相手としたい」のである。そのために行動して「したくもない相手にされる」ことを容認しなければならない道理はない。断じてない。およそ、自暴自棄になって「誰でもいい」と嘯いていてるような女性でも、犬に犯されるのは不本意だくらいには思っている。「誰でも」は、せいぜい「本当に好きな相手じゃなくても」くらいの意味合いでしかない。だから「誰でも」なんていっていても、ヤリたい盛りのガキのたまり場にヤラれに行く女性はあまりいない。本当に「強姦されること」に快感を覚える人はいるかもしれないけれど、極めて稀だろう。

だから、無理に犯すような奴は男女を問わず糾弾されるべきだし、犯された側が責められる理由は男女を問わずひとつもない。少しお酒に酔っているらしい妙齢の魅力的な女性が全裸でぼくのベッドに入ってきて、「あなたとセックスする気はないの、ただ人肌恋しくて全裸で抱き合って眠りたいだけ」なんて思っていたとして、そんな相手に「セックスしたいの?」なんてぼくは訊かないだろうし、そう低くない確率でセックスを挑んでしまうだろうと思う。翌朝、「昨夜のセックスは不本意なものだったわ、あれは強姦よ」と責められたとして、ぼくはどうしていいかわからない。

これは極端な例かもしれないけれど、少なくとも、その女性が「ただ人肌恋しくて全裸で抱き合って眠りたい」と思ったことは罰せられるべき罪なんかじゃない。そして、行動したことも。ただ、この行動から「ぼくに犯されるかもしれない」というリスクを取り除くことは難しい。その女性は悪くない。たとえ地球人類のすべてがそう認めたとしても、犯されるかもしれないリスクがゼロになるわけではない。つまり、「犯された女性を決して責めない」或いは「強姦した側が100%悪い」という考え方が当たり前の世の中になっても、犯されるリスクそのものは消えないのである。

要するに「犯された人間を責めるべきではない」という議論と「犯されないためにどうすべきか」という議論は、別の問題と捉えるべきなのである。後者の視点で「リスクヘッジのために、女性は危険な場所に扇情的な恰好で行くべきではない」と誰かがいう。すると前者の視点で「扇情的な恰好をする女性が悪いというのか、それは女性の欲望に対する抑圧である」と誰かが反論する。不毛である。扇情的な恰好をする女性が「悪いから」犯されるのではない。まったく「悪くなくても」犯されるのである。その危険をどうやって減らすべきかという視点を無視することはできない。

強姦はする方が悪い。であれば、厳罰に処すことで抑止に努めるべきなのか。人肌恋しくて全裸で異性に抱きつこうが、ほろ酔い気分で異性とふたりきりになってディープキスを繰り返そうが、セックスがしたいのだとは限らない。合意なく犯せば強姦である。それはいくらなんても全裸で迫ったりヨダレまみれでキスする方にも原因はあるだろう。そういう人は出てこないだろうか。出てきたとしたら、「どこまで」なら100%やった方が悪くて、「どこから」ならやられても仕方がないというのだろう。線引きは可能だろうか。無理だろう。すでに感覚の問題になってしまっている。

「(犯される方にも原因があるのだから)犯されないために自重しろ」とはあまりに破廉恥な発言だろう。けれども「(悪くなくても犯されることはあるのだから)犯されないために自重しろ」というのは、果たして責められるべきことだろうか。寂しいとき、女性が男性の友人宅に行って抱きしめてもらいたいと望むことは、別に悪いことではない。悪くはないけれど、その異性が自分のことを好きで性欲の対象でもある、或いは、その可能性が少なくないというとき、本当に「犯されたくない」なら行くべきではないとアドバイスすることは女性に対する抑圧というべきだろうか。

自衛を勧める言葉は、必ずしも、女性を責める言葉とイクォールではないとぼくは思う。

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