性的な抑圧を無効化するための規制社会

前二回のエントリーについたコメントから、これらの仮定の難しさを再認識した。

年齢も性別も超えたエロ先進社会、或いは、ロリコンの解放|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記
はてなブックマーク - 年齢も性別も超えたエロ先進社会、或いは、ロリコンの解放|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記
性的欲望の対象になることが怖いのは何故か?|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記
はてなブックマーク - 性的欲望の対象になることが怖いのは何故か?|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

まず、性行為の多くが生殖行為と結びついていることが話を難しくする。上記リンク先の主張における性行為は、生殖行為を前提としないものとして書いた。でなければ「年齢性別を問わない」という前提が崩れる。つまり、同性同士の性行為も性行為として認めようという方向性である。この場合、妊娠はリスクということになる。といった時点で、既に論外だという意見が出るのは覚悟している。堕胎行為の悲惨を考えれば人として当然の反応である。性に対する負の抑圧をなくしてしまうことは、欲望の箍を外すことだと懸念する人がいるのも解からなくはない。

性行為を行うに相応しい判断力、或いは、自立性の問題もある。これがまた相当に難しい。「妊娠してしまったときの責任能力」というのを度外視しても、どこかに正解があるとは思えない。何しろ生殖を前提としないという仮定であれば、肉体的に生殖能力のない年齢でも性行為は可能である。10歳の子供の判断力は認めるべきか否か。14歳ならどうか。15歳なら、16歳なら、18歳なら…。はたまた、精神病患者のセックスは禁止すべきか、脳性麻痺はどうか。極度のヒキコモリで社会経験の圧倒的に不足した人間の判断力は認めるべきか。境界線はどこに引くべきだろう。

前回、前々回で問題にしたかったのは社会的に「普通ではない」と判断された性行為が、実害の有無に関わらず「いけないこと」として抑圧され、それによって傷付く必要のない人の心まで傷付けているのではないか、ということだった。そこで、「社会的な抑圧を最小化する」というひとつの仮定の話をした。ここでは、対極の仮定の話もしてみたい。つまり、「社会的な抑圧を最大化する」ことで、無用のトラウマを社会から排除するという方向性である。それは「性行為をすべて禁止する」ことだ。現代の技術をもってすれば、必ずしも生殖に性行為は不要である。

これは実質的に性を完全にプライベート化することを意味する。コミュニケーションとしての性を全否定する社会である。この場合、性欲はただ処理するためだけのものであり、要するにオナニーこそが性行為のすべてとなる。オナニーによる快楽と精神的充足が追求され、ある程度達成されれば、十分に実現可能な社会だろうと思う。同性愛問題で悩むことも、ロリコン問題で悩むことも、童貞問題で悩むこともない。他者と性交渉を行うという選択肢自体がないのだから、性交渉を望むとこと自体が人としておかしいということになる。性の問題はあらかた解決する。

結局は、一部の性行為だけを「非常識」だの「変態」だの「アブノーマル」だのといって弾圧するから、そうした行為の当事者たちが不当な抑圧を受け苦しむ羽目になるのである。けれども、そもそもこの「非常識」や「変態」や「アブノーマル」の定義など恣意的なものにすぎない。そのうえ、生理的感覚に依存するような好悪から、現実的リスクの絡む是非まで、色んなレベルの問題が入り乱れてほとんど収集不能といっていい。結局は「社会的合理性」に乗っ取った形で線を引くしかない。その際、いかに個人の多様性を担保できるかはとても難しい問題である。

そして少なくともぼくは、倫理面でマイノリティを否定するのは違うんじゃないかと思う。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/423

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索