広島遠足のしおり~初日「戦争と平和」前篇

diary070812.jpg広島に行ったことがなかった。

いや、九州行きの新幹線で通り過ぎたとかそういうのはなしにして、である。盆の旅行先に選んだのは、夏、終戦、原爆という毎年恒例の三題噺が、ぼくの脳にもしっかり刷り込まれているせいでもあろう。この歳になって実に今更ではあるけれど、ならばしっかり原爆ドームも資料館も見てこようじゃないか。そういうことになった。

11時59分新大阪発のひかりに乗って一路広島へ。3日前に取れた唯一の指定がこの便の喫煙席で、ニコチンの燻製も覚悟の出発だった。ところが、蓋を開けてみるとまったくの杞憂で、煙に視界が曇るようなこともなく極めて快適な道行である。時期が時期だけに子連れも多く、単に禁煙席が取れなったぼくたちのような客も多かったのだろう。

昼を跨ぐ列車の旅といえば駅弁である。とはいえ、広島は近い。あまりに近い。なにより名物あなごめしがゴールというはいただけない。元祖珍辨たこめしという手もあれど、あれとてゴール目前にならなきゃ手に入らない。岡山の手前で通り掛かった車内販売の売り子に駅弁のメニューを所望する。訊けばあるのは各種幕の内ばかり。つまらない。

この先種類は増えんのかと問うと、停車駅で取り寄せることはできるという。とはいえ、食す時間を鑑みるに次の岡山あたりで手を打たねば後が苦しい。広島県内まで粘って慌てて掻き込むようなマネは願い下げである。結局、岡山で入荷する「桃太郎の祭ずし」なる弁当を頼むことにした。桃太郎と寿司の因果は今もって不明である。

好い具合に腹も膨れ、13時半頃には広島に到着。本日の遠足のテーマは「戦争と平和」と決まっている。事前リサーチは抜かりない。予約したホテルは平和記念公園から徒歩圏内である。まずは、15時のチェックイン前に定番コースを辿っておく。広島駅から15分ほど年季の入った路面電車に揺られ、原爆ドーム前で下車。初の生原爆ドームである。

蒼天に聳えるあまりにも有名なその建物は、あちこちを黒々とした鉄骨に支えられ、ほとんど満身創痍の姿を陽光の下に白々と晒していた。今や、この程度の破壊の痕跡に戦争の悲惨さを思い知らせる力はないだろう。最も有名な観光資源のひとつとして人を集め、携帯カメラを向けさせる力はあっても、人の心を波立たせるだけの力は多分もうない。

炎天下の平和記念公園をトボトボと南下しながら、動員学徒慰霊塔や原爆の子の像をただただ漫然と眺め、原爆死没者慰霊碑に並ぶ人の列を横目に平和記念資料館へ。大人50円という破格の入館料を支払い展示場内に入る。まさにシーズン真っ只中。恐ろしい人出である。厳粛なムードなどは望むべくもない。人のうねりに身を投じ流されるより他ない。

パネルを流し読み、展示ケースの布切れや紙切れに目を凝らす。原爆投下時刻で刻を止めた腕時計、爛れた皮膚と襤褸をぶらさげて彷徨する被爆者たちの人形、襤褸と化したモンペや防空頭巾、溶けて岩のようになった硝子、病院で撮られた被爆者達の写真、放射能に晒された皮膚や舌の標本…。いずれ、どこかで見たようなものばかりである。

冷房の効いた館内で整理された展示物を人波に流されながら見物する。それで何を感じ、何を考えるかは、もちろんその人次第には違いない。ただ、原爆ドーム同様、これが否応なく人に何かを考えさせるようなシロモノでないことだけは確かだろう。情報だけなら居ながらにして手に入る時代である。その場で見る価値を創り出すことは難しい。

あまりの人の多さに、予定よりも時間を食ってしまった。15時に40分ほども遅れてチェックインする。街中のビジネスホテルである。観光拠点としては申し分ない。無料朝食付きでひとり頭4,000円ほど。宿泊に重きを置かない旅行なら、これほど使える宿はない。部屋で荷物を減らしたら、お次は戦艦大和の故郷、呉へ向けて出撃である。

大和ミュージアム、そのミーハーな響きがたまらない。

…といったところで、広島遠足のしおり~初日「戦争と平和」後篇に続く。

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ようこそ広島へ。

戦後62年ですから、もう原爆を体験として語れる人も少なくなりました。私は祖母に祖父がバケツ一杯の血を吐き続けて死んだという体験談を聞かされて育ちましたが、そういう話をしてくれた祖母も25年も前に他界しています。

資料館や平和記念式典は、実際に被害を受けた人やその関係者が年々少なくなっているためただの儀式と化していることは否定できません。
ただ、広島で生まれ育った人間としては、ほんの少しの効力であっても、人間が同じ過ちを起こさないように警告する意思表示として残しておかないといけないものだろうと思っています。

Ozさん、いらっしゃいませ。
広島にあれがあるというだけで、意味はあるのだと思います。人間はあらゆるものごとをいとも簡単に忘れる生き物ですし。ただ、ぼくはあの地に立つのが少々遅すぎたようです。情報に対して初心な年頃に見ていれば自ずと感想も違ったでしょう。その意味で、ぼくにとってのヒロシマの衝撃は、小学生の頃に読んだ中沢啓治の『はだしのゲン』だったりします。

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