文章力を鍛えるのための勝手に添削スパーリング

岡目八目、という言葉がある。

国語には、文章を「直す」訓練がいいのでは

なるほど、これはいいアイデアかもしれない。書く訓練のために内容まで要求するのは酷だ、というだけではない。人間、自分のことは見えにくくても他人のことはよく見えたりするものだ。これは何も国語教育に限った話ではない。たとえば、山田悠介の本を読んで文章にケチをつける。よく目にする光景だ。けれども、ケチをつけるだけじゃもったいない。文章力の鍛錬に興味があるなら、ここはひとつ書き直してみればいいのである。これはダメだと思う他人の文章の欠点を分析し、改善策を提示する。なんとなく鍛えられそうな気がするではないか。さっそく試してみたいところだけど、ぼくは山田悠介の本を持っていない。

仕方がないので、最近ちょっと読みかけた『赤い絨毯』という小説をまな板にのせてみる。いわずと知れた人気ブロガー、元切込隊長こと、山本一郎氏の手になる青春小説である。本人いわく、「意外に好評」なのだという。ぼく自身、氏のネットウォッチャーとしての魔眼力と煽りの効いた軽妙な文体にやられたクチである。連載小説を始めたと聞いて意外の念に打たれつつ、いそいそと読みに行ったことはいうまでもない。その初回冒頭「【第1回】10歳、冬、大曲へ。」が今回の題材である。初読の感想を端的にいえばこうだ。え、これ小説なの?…無料部分だけ読んで、そっとブラウザを閉じた。それを改めて分析してみる。

問題点1:説明過多で描写が異常に少ない

小説指南でよく聞くダメ出しである。まあ、説明と描写などといって明確に腑分けできるようなものではない。ただ、いきなり「語るべき友達が居ないというのも、またいいものだよ。」などとこられると、グっと言葉に詰まる。その後も「どんな少年か」という内容が、すべて回想とも独白ともつかない言葉で説明されていく。なんと無料部分のほぼすべてが、語り手による主人公の内面紹介である。つまり、物語が一向に始まらない。少年の現在の状況から学校での態度、ひとりのときの行動、父親とふたりの家庭生活などを具体的に描写することで物語が立ち上がりキャラクターが浮かび上がってくる。そんな改善策が欲しい。

問題点2:語り手と主人公の関係が不明瞭

章題を見る限り、物語開始時の主人公は10歳の少年である。一人称で書かれている以上、考えられる語り手と主人公の関係は大雑把にふたつある。ひとつは、10歳の少年である主人公自身が語り手というケース。もうひとつは、過去を回想する未来の少年が語り手というケースである。おそらくは後者、それもかなり「作者自身」に近い語り手を想定している。そのように読める。問題は「語るべき友達が居ないというのも、またいいものだよ。」といった、地の文に頻繁に表れる思想信条に近い言葉や内面に関わる説明文が、10歳のものなのかオッサンのものなのか区別がつきにくい点だ。ここは少年のキャラ描写に直結させたい。

問題点3:続きを読みたくならない

そもそも、物語が始まる前に無料部分が終わってしまったせいで、まったく続きが気にならない。主人公がいまどこにいて、目前にはどんな世界が広がっているのか、その片鱗すら書かれていない。少年はいまどんなふうに世界と対峙し、どんなふうに話し、どんな日常を送り、どんなときに孤独を愛で、どんな態度で他人を拒絶するのか。物語の予感すら、そこにはない。あと、無料部分を読み終えたとき、一瞬、連載の第1回目はこれで終わりなのかと思った。キリがよすぎる。どうせならもうちょっと、まかり間違って購読手続きをしてしまいかねないような、中途半端でヒキのある文章をもって、無料部分を終えておきたい。

…以上のような問題点に留意しつつ、実際に書き直したのが下記リンク先の文章である。

切込少年、レッドカーペットを行く

正直、すまんかったと思う。とりあえず物語をさっさと立ち上げるために、少年を大曲に向かう列車にのせた。地の文は原則として物語現在を基準に少年に寄り添う形で記述。原文冒頭から読み取れる情報をベースに、物語現在は主人公が小学5年生に進級する直前の早春であることを明示、友人がいない少年の現状やそのことに対する少年なりの思いを、大曲に行くことになった経緯とともに、少年の回想という形で表現してみた。また、孤独に淫する性向、読書傾向、父との関係を想像させる場面などを、極力具体的なエピソードとして描写し、原文で感じた少年のキャラクターをなんとか片鱗だけでも表現しようと試みている。

で、っていう。そもそも原文どこいった。余興はそれまでとして、色々書いてはみたけれど、小説なんてだいたいがどこまでも自由な文芸で、これといった決まりがあるわけじゃない。『赤い絨毯』みたいな小説があっても、楽しく読める人がいるならそれでいいのである。ぼくには、たとえばはてなの増田で時折見かけるような、同年輩のオッサンの自分語りにしか見えなかった。いくら小説風の文体で書かれていても、ああいうものを「小説」と呼ぶことには抵抗がある。けれども、モノローグだけの小説や、書簡体小説があり得るように、増田風自分語り小説みたいなものがあってもいい。結局は「好み」の問題なんだろう。

結論、ぼくみたいな素人が直したって別に面白くはならないけど、添削自体は面白い。

※ 『赤い絨毯』は連載が完結したらお金を払ってまとめて読んでみるつもり。

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