下手な文章というのはあるが、上手い文章というのはない

一般的な意味で上手い文章というのは、たぶん、ない。

俺なりの「文章うまくなる方法」 - G.A.W.
「いいなぁ」という文章に近づくために必要なこと - GoTheDistance

あるのはただ誰かや何かに合った文章である。似たようなことを少し前にも書いたなと思ったら、偉そうに文章術のようなものを書いていた。若気の至りである。先月のぼくはあまりに若かった。後悔は、それほどしていない。文章を公に晒すというのは、そういうことだと思っている。それはまあいい。上手い文章の話である。タイトルにも書いたけれど、下手な文章というのはあると思う。誤字脱字が酷いとか、誤謬に塗れているとか、本人以外には何が書いてあるのか解らないとか、そういったものである。要するに、文章の体をなしていない。それは下手といっていいと思う。

文章として特段の瑕疵がない。言葉遣いは正しく文意も通っている。そういう文章なら、言葉を正確に学び、推敲を怠らなければ誰にでも書ける。それを上手いというならそうなのだろう。純粋に技術の問題だから、上手い下手の基準としては分かりやすい。けれども、「村上春樹は文章が上手い」というとき、そこにはたぶん「文章に瑕疵がない」という以上の評価がなされている。そういう人はきっと村上春樹が好きなのである。上手下手という言葉に技術以上の何かを込めている。既に基準はないに等しい。村上春樹と三島由紀夫と中島敦の文章を比べてどうなるものではない。

文章を書くということは、言葉を選ぶということだ。組み合わせは無限かと思うほどにある。正解というのはない。或いは、無数にある。その無数の正解に揺るぎない順位を付けることは可能か。無理だろう。言葉遣いが正確であることや、文意が明快であることさえ、上位を獲る絶対条件ではない。たとえば、非凡な言葉の選択が文学的魅力になる。非凡であるということは一般的ではないということである。解らない、という人が多くいても不思議ではない。村上春樹の文章だって通じない人はいる。それは決して村上春樹が悪いわけでも、理解できない読者が悪いわけでもない。

「一分の隙もない正確無比な文章」や「比喩が個性的な文章」や「目に浮かぶような描写力の文章」や「快適なリズムを持った文章」や「文法の歪みが魅力的な文章」や「荒削りだけれど疾走感のある文章」等々、魅力的な文章というのはいくらでもある。それを上手いといって褒めるのは、あまり上手い褒め方ではない。その文章は上手いのではなく、合目的的であり魅力的なのである。無限の組み合わせから唯ひとつ選ばれ紡ぎ出された言葉の連なりを、単に巧拙だけで評価できる道理はない。上手い、とだけいうのはただの感想である。料理を、美味い、というのと変わりない。

畢竟、目指すべきは目的に合った文章か、でなければ「好き」な文章だろう。

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