「やらない」のは「できない」のと同じ

金持ちになりたいとは思わない。

金持ちを見てそういう人がいる。それは「金持ちになれない」といっているのと同じだろう。「なれないんじゃない、ならないんだ」…なんていい換えに意味はない。いい換えを必要とするのは「なれない」ことを蔑む心だ。或いは、蔑む視線を気に病む心だ。なんだかんだいってもお金はたくさんあるに越したことはない。大金持ちになれるものならなってみたい。その程度にはいいものだと思っている。憧れている。だから「なれない」自分は否定されなければならない。「ならない」自分をアピールしなきゃならない。そして「なれないんじゃない」とわざわざ断ることになる。

心底やろうと思わないなら、わざわざ「やろうと思わない」なんていったりしない。それを断らなきゃならない価値観自体、理解できないはずだからだ。「金持ちになんてなろうとは思わない」とわざわざ表明する人は、「ホームレスになんてなろうとは思わない」などといちいち宣言したりはしない。ホームレスにだって「なろうと思えばなれる」はずである。けれども、「なろうと思わない」なんて宣言する必要性を感じない。いい換えれば、そこにアリバイは不要だと思っている。逆に、あえて口にするのはアリバイが欲しいからだろう。なれていないことへのアリバイである。

別に「なれないんじゃない、ならないんだ」という主張が「嘘」だといっているのではない。むしろ多くの真実を含んでいるんだろうとさえ思う。たとえば「金持ちになろうとは思わない」という言葉には、たぶん(他の何かと引き換えにしてまで)といった含意がある。(だらだら過ごす休日を返上してまで)とか(平社員の気楽な身分を捨ててまで)とか(将来のための勉強や努力に時間を割いてまで)とか、そんな含意である。ダラダラと無為な時間を過ごすから金持ちになれないんじゃない。金持ちになる努力よりもダラダラと無為な時間を過ごすことを選んでいるのである。

けれども、その「やりたいこと」に自分で価値を見出せない。やりたいことは一生ダラダラ過ごすことなんですと自分でもキッパリ思い切れない。だからアリバイが必要になる。「やった方がいいんだろうけれどできない自分」を発見する、或いは、周囲に発見されるのを恐れて「できないんじゃない、やらないんだ」と予防線を張る。やればできる子なんていない。やったらできちゃった子と、やってもダメだった子と、やらない子がいるだけだ。そして、やらない子はやればできる子なんかではない。やれない子である。能力的にできないか心理的にできないかの違いでしかない。

そして、能力的にできないより心理的にできない方がマシだなんて理屈はない。

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