自己否定の泥沼でもがく若者を妄想する

リンク先の議論はそもそも議題の設定が不如意である。

彼女いなくても結婚しなくても風俗あれば十分じゃない?

「風俗」は「恋愛・結婚」の代替物たり得るか?この設問が導く議論は、まず「恋愛・結婚」にあって「風俗」にないものを抽出し、その要不要を検討するというものでしかない。第一に、そこから何を抽出するかは個人の恋愛観、結婚観、風俗観に依存する。第二に、抽出されたものが必要か不要かの判断も個人の価値観に依存する。つまり、これは個人の価値観を発表し合うためのテーマであって、議論のための議題にはなっていない。逆に、個人の価値観に基づく意見を排除したいなら、たとえば「経済成長のためには風俗があれば十分ではないか?」など、別の基準を明示すべきである。

というわけで、以下、リンク先の議論ならざる議論を離れる。そして、こういう議論をふっかける「人」について妄想の翼を広げてみる。あえて予防線を張っておくけれど、これは匿名氏の内面をいい当てようという話ではない。こういう発言をする人の中にはこんな人もいるんじゃないか、という程度の思考ゲームみたいなものだ。だから、これから書く内容が件の匿名氏に当てはまるかどうかについては特に配慮しない。ただ、リンク先の内容を下敷きにする便宜上、妄想の対象人物を「匿名氏」と記述する。また、文中の発言者のどれが匿名氏かも明示的でないため、これも想像で進める。

まず、全体の流れから察するに、匿名氏は「彼女いなくても結婚しなくても風俗あれば十分」だと自分の中ですでに結論している。そして、冒頭にも書いた「恋愛・結婚」にあって「風俗」にないものを無価値なものと考えている。たとえば「愛情は腹を満たす?なくても生きていけるでしょ?」や「子供作らなくても生きていけるよね?」という発言から、逆に「性欲を満たす」行為はないと生きていけないと考えていることも分かる。もし「セックスなんてなくても生きていける」と考えているなら、この辺りの問答はそもそも成立しない。つまり、愛情や子供は不要、セックスは必要となる。

次に、匿名氏は「社会の要請」に従って行動することを否定する。また、「セックスをしたい」のは本能だけれど、「子供が欲しい」と思うのは本能ではないと考えている。さらに「好き」や「子供が欲しい」という気持ちがセックスするふたりの間で一致する確率は事実上0に近いと諦め、そういう状況での子作りは自分にとってはレイプと同義であるという価値観を吐露する。また、「レイプされてできた子供を生みたくはないし、生んでも愛せない」としながら、その直後にレイプだったとしても「自分の子供であるならば愛せる、生きがいになる」なら生んでもいいかもと、前言を翻す。

ここで唐突に両親が出てくる。そして、匿名氏の持論が世間一般の男女ではなく、主に「自分の目に映る両親」をケーススタディとしていたことが明らかになる。愛し合っているように思えない両親があり、けれども、結果として自分が生まれてここにいる。その自分も「・・・大事にしてくれる友人は沢山いる、でも恋人になってくれた人はいない、セックスはしても恋愛感情を持たれたことはない。」と感じている。つまり、本当の質問は「なぜ両親は結婚をしたのか、なぜ自分は生まれたのか」であり、「わたしは恋愛、結婚すべきか、また子供を生むべきか」ということなのではないか。

そして、議論をふっかけたのは、本当は肯定的に論破されたかったからかもしれない。

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