「やらない」いい訳と責任と罪

何かを「やらない」ことに理由は必要だろうか。

寄付の依頼が来た - レジデント初期研修用資料
「あなたのやり方が悪いので私は動員されません」という責任回避 - E.L.H. Electric Lover Hinagiku

必要なときもあるだろう。たとえば、しなきゃいけないことをしないとき。或いは、人の勧めや誘いを断るのに相手を気遣うとき。つまり、「あえてやらない」ことを選択するとき、といってもいい。そんなときは、理由があった方が座りがいい。けれども、本来、何かをやらないことは、選択ですらないことの方が多い。ぼくが生八橋を食べないことに理由はない。強いていうなら、食べようと思ったことがないからだ。こんな理由は理由ですらない。つまり、ぼくがインド旅行をしないことにも、シシカバブを作らないことにも、セックス相手を亀甲縛りにしないことにも、特段の理由はない。

けれども、微妙なケースというのはある。たとえば、本当はした方がいいと思いながらやらないとき。或いは、本当はしたいのにやらないとき。こういうとき人は、しばしば自分がそれを「やらない」理由を語りだす。誰にも何もいわれてないのに、これこれこういう理由で自分はこれをやらないんだよ、と。こういうのは大抵、「やらなくて正解だよ」という同意を求めているんだろう。つまりは、自分を納得させたり安心させたりするために、他人の同意を利用しようという企みである。人の心は弱い。寄付はした方がいいんだろうけど…。そういう気持ちがあるからこそいい訳もでてくる。

さて、最初のリンク先の読みにはいくつかの可能性がある。第一に、ぼくが亀甲縛りに何ら興味を持てないように、そもそも寄付にはまったく興味がなかったという可能性。寄付を募る手法を広告的な観点からネタにしただけで、そもそも寄付をしようかしまいかなんて葛藤さえなかった可能性は否定できない。第二に、否定的なニュアンスでネタにはしたけれど実は寄付した、或いは、するつもりだという可能性。第三には、寄付しないことに一片の疾しさがあって、心が勝手に遠回しな自己正当化をさせてしまった可能性。そして、寄付依頼に悪印象を抱かせることが目的だったという可能性。

まあ、他にも考えられるだろうけれど、分かりやすいところではこんなところかと思う。ふたつめのリンク先でy_arim氏が批難しているのは、たぶん第三のそれに近い可能性を前提にしているんだろう。ぼくは、それを「自己正当化」と表現したけれど、y_arim氏は「責任回避」と表現している。その責任とは何なのか。素直に解釈すれば「寄付をしないという選択」に対する責任だろう。であれば、寄付しないことで被るかもしれない不利益はあなた自身の責任だ、という自己責任の話だろうか。或いは、寄付すれば助かるかもしれなかったアフリカ難民に対して責任を感じろという話だろうか。

ぼくは難病者のための街頭募金に応じたことがない。正直そのことに良心の呵責を覚えたことはないし、ぼくが募金しなかったせいで誰かが死んでしまったと聞いても、多分、責任を感じることはできない。ぼくが人助けをしないとき、そこに理由はない。人助けをするときは、その人が好きだとかいうことも含めて理由がある。24時間テレビを見ても、阪神淡路大震災があっても、ぼくは何の協力もしなかった。しないという選択をした意識すらない。たとえ、ぼくの手持ちの小銭で救える命があったとしても。それを責められるなら甘んじて受けるよりない。ぼくはそのように生きている。

だから、ぼくには「やらない」いい訳すらない。その方がずっと罪深いのかもしれない。

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ガザをはじめとする世界の戦争はなくなりません。先日、知人にこう言われました。
『日本国外の戦争の存在を我々は知っているのに、何もやらない。抗議の声すら挙げない。それは戦争に、極端に言えばそこで行なわれる虐殺に加担していることになる。戦争の責任は我々全員にある。』と。

確かに自分は世界で現在進行している戦争に対して何も行動を起こしていません。「やらない」言い訳すら持っていません。そしてその方が罪深いのかもしれません。また知人はこうも言いました。
『(誰もが持つ)戦争責任に対して無自覚・無反応な人間が多いこと自体が非常に危険だ』と。

罪深さを認めれば見逃してもらえるかというと、どうもそうではないみたいです。人の敵意や偏見にさらされるのあまり気持ちのいいものではありません。こちらが何もやらなければ、さらに視線が強くなる気がします。それが嫌ならば何かをやるしかないのか。それも一興だけど、やっぱりめんどくさい、そんな暇はないよ。とか考えます。

そこで仮にこの問題に限って、自分を突き動かす根本を探ってみました。すると浮かび上がったのは「エゴイズム」でした。異国の人がどうなろうと知ったことではない、自分のことが最優先、と。「エゴイズム」などと言ったら大抵の場合は否定的にとらえられると思うのですが、本当にそんなに間違ったことなのでしょうか?難題ですが模索中です。

ちなみに幸か不幸か、「エゴ」をあっさり認められる自分がいます。

> peace or warさん
「責任」というのは便利な言葉ですよね。ぼくたちは世界中に溢れる不幸に対して責任があり、また、世界中に溢れる幸福に一役買ってもいます。なるほど、戦争で死に行くある命に対して、ぼくには一片の責任があるのでしょう。同じ理屈で、誰かが得た幸福はめぐりめぐってぼくのお陰でもあるはずです。このように、ほとんど形而上的ともいうべき責任の追及は、風が吹いて儲かる桶屋の話程度の与太にすぎないのではないかと、今のぼくは思っています。また、自ら「エゴ」を認めることは世界と対峙するための最初の一歩ではないか、とも思っています。あえて露悪的ないい方をするなら、誰の役にも立たない「失われ行く命への罪の意識」も、自らが生きるための娯楽かそれに類する「エゴ」の発露にすぎないのだと思います。

エゴが無ければ生きられない。
でも、一年のうち、たった一日でもいいから、他人の不幸に目をやる気持ちを持ってください。

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