個性的な人なんて所詮普通の人

「キミ、変わってるよね」は、まず褒め言葉だと思う。

Geekなぺーじ : 変態願望

褒めるに困って「個性的だよね」というケースも確かにある。けれども、ルックスやファッションが微妙だとかいうニュアンスの場合は別として、人となりを評して個性的だというならそう悪い意味ではない。リンク先の「変態」も「個性的」の延長にあるものだろう。ある時期、画一的な価値観の押しつけへのカウンターとして、個性の時代なんてことをいわれたこともあった。それで、自分探しみたいな流行病が湧いて出たりもした。今もその風潮は少なからず温存されているように思う。けれども、世間に認められる個性というのは、実は相当に限定的だ。世間は本当の逸脱を許さない。

リンク先であきみち氏は「ただし、この『好まれる変態』というのは非常に微妙なバランスの上に成り立っています。」と書いている。その通りだと思う。これは実のところ「普通からは逸脱するな」といっている。趣味嗜好が個性として許容されるためには、まずその趣味嗜好が市民権を得ている必要がある。また、広く求められる個性というのはせいぜい野球がうまいとか、絵がうまいとか、歌がうまいとか、ファッションセンスが良いとか、数学がずば抜けて得意だとか、マルチリンガルだとか、(極めて一般的な)趣味に夢中だとか、そういういかにも常識的な美点のことでしかない。

そういう暗黙の了解のもとで、なお多くの人が個性的たらんとする。いきおい微妙な差異を競うことになる。それはある程度の人数を観察すれば類型化できてしまう程度の差異である。「アタシってよく変わってるとかいわれるんだよね」という自己申告は、たいてい自分が個性的であることを相手に認めさせようとする言葉だろう。ところが、ほとんどの人の個性は、それなりに密に付き合って初めて認識される程度のものでしかない。だから、それほど深い付き合いでもない相手にいわれても「別に普通じゃん」という感想しか出てこない。けれども、それを正直に口にするのは憚られる。

逆に、「オレって超普通じゃん」という自己申告も、実のところ「えー、変わってるよー」という返事を期待していたりするから油断できない。実際普通に見えるからといって「うん、普通だね」と返すのは、これまた憚られる。まあ、こんなものは大人対応で当たり障りなく互いに気持好く会話を楽しめばすむ話である。むしろ問題なのは、こうした個性を尊重しているはずの人たちが、少しばかり逸脱した個性の持ち主を簡単に批難する態度の方である。本当に変わっている人は、凡人の理解の外にいる。そういうものまで受け入れるてこそ個性の尊重ではないかと思わずにいられない。

どうせ異端を受け入れらないなら個性礼賛なんてやめてしまった方がいい。

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>むしろ問題なのは、こうした個性を尊重しているはずの人たちが、少しばかり逸脱した個性の持ち主を簡単に批難する態度の方である。

偽善的、理想論的なことを語っている人も、
結局は自分の許容範囲を甘く見積もってるだけで
対象がその境界線を超えた瞬間、掌を返した態度に……

そういう人達とはあまり関わりたくないものです

> Anonymousさん
その甘く見積もっている許容範囲が実は相当に狭いものにもかかわらず、なお、その狭量さに無自覚で懐が深いと自認しているような人は厄介ですね。まあ、ぼく自身がどこまでの差異を許容できるか分からないですし、もしかすると相手に対する感情のようなものでその範囲は左右されてしまうのかもしれません。その意味で、そうした狭量に自覚的でいようとは思いますが、どこまで寛容でいられるかどうかは正直よく分かりません。

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