他人を「コンテンツとして消費する」という感覚とその意味

自分にとって他人は日常を彩る「コンテンツ」のひとつにすぎないと考える。

荻野はコンテンツとしてとても面白かった - phaのニート日記
電車の中で通話していたら切れられて強制下車させられたのを見た

両リンク先に共通して感じるのは、他者に対する独特の距離感だ。その気分を今風に表現したのが「コンテンツとして消費する」という言葉なんだと思う。もちろん、自分にとって世界のすべては脳が処理した情報にすぎないという考え方はまったく特別なものではない。その意味では自分が認識する世界そのものが膨大なコンテンツの集積だということになる。そうした考え方は、今となっては、ひどく古典的で素朴な世界解釈のひとつにすぎない。特筆すべきものでもないだろう。けれども、リンク先の「コンテンツ」という表現は、そこまで観念的な世界観の表明ではないように思える。

たとえば親が死んだとき、「コンテンツとして有用だった」といってしまえるかどうかは、親との関係に依存するのではないか。或いは、自分が苦境に立たされたとき、その苦しい状況をコンテンツとして消費中だと割り切れるのか。すべてをフラットに「コンテンツ」だと認識するなら、自我も含めたすべてが「コンテンツ」だということになる。けれども、彼らのいう「コンテンツ」は、あくまでも消費する自己とは切り離された概念であり、心理的な距離感を表明する言葉であるように見える。無論、他者にとって自分が消費される「コンテンツ」となる可能性までは織り込み済みだろう。

だとすれば、誰かをコンテンツとして消費できるかどうかは、自らの当事者性と心理的距離の問題になってくる。ひとつめのリンク先にある荻野氏との関係におけるpha氏の当事者性と、ふたつめのリンク先にある電車内におけるブログ主の当事者性は、一般的にはより前者の方が高く思えるんじゃないかと思う。そして、ブログでそれを読んでいるだけのぼくたちに比べると、やっぱり彼らの当事者性は高いというのが普通の感覚だと思う。けれども、これらのブログをコンテンツとして愉しむぼくたちと、pha氏や電車内のブログ主は、心理的距離においては大差がないように描かれている。

つまり、当事者性と心理的距離がまるで連動していない。荻野氏とpha氏、電車内の諍いとブログ主、それぞれのブログとその読者、これら3つの関係が心理的にはほとんど等距離に見える。これは、冒頭に挙げた脳による一元論のような観念的な意味ではなく、もっと感覚的な意味で世界認識がフラット化しつつあることを意味するのではないか。当事者性というのは、要するに、自他が互いに影響を与え合う度合のようなものである。そして、その影響をどれだけ自分事として認識するかが心理的距離だろう。他者の影響を認識しない。これはたぶん、肥大した自我の問題ではないかと思う。

影響を認識しながらそれも情報のひとつと見做すことと、そもそも影響を認識しないことはまるで違う。pha氏と荻野氏のような関係であれば、互いに影響を与え合ったはずだ。普通はそう思う。けれども、その影響はぼくたちがブログを読んで受ける程度のそれにすぎない。それが「コンテンツとして消費する」の意味だろう。これは、物事を冷静に客観視しているというのとは少し違う。たとえば、不測の事態に落ち着いて対処できるような能力を意味しない。むしろ、自他に対する影響に鈍感なこの傾向が進行すれば、実際的な対応能力は損なわれていくだろう。心理的な安定と引き換えに。

世界を「コンテンツとして消費する」ことは、閉じた自我を生きることなのかもしれない。

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