ベジタリアンという食道楽

ただの偏食の話をこうして面白おかしく書けるのはさすが著名ブロガーだと思う。

きっこのブログ: ついウッカリのベジタリアン

食に善悪はあるか?ベジタリアンでもベジータリアンでも何でもいいけれど、こうした意図的な偏食といわゆる好き嫌いによる偏食との間に本質的な差はない。理由が少し異なるだけで、ただの偏食だ。宗教上の理由で牛を食わないのも、ダイエット中で牛を食わないのも、味が嫌いで牛を食わないのも、臭いが嫌いで牛を食わないのも、菜食主義で牛を食わないのも、やっていることはみんな同じである。性質が悪いのは、ただの偏食の癖に、その偏食を「正しい人間の姿」であるかのように主張し、偏食でない人間を暗黙裡に非難するような「○食主義」の類だろう。

自分で食い物を獲って食わなきゃならない環境に置かれれば、人は食い物を獲って食う。それが生きるということだろう。ただ、複雑になった人間はパンのみには生きられない。生きることと心の娯楽はときに対立する。動物を食うことと動物を可愛がることも、その対立の解りやすい例のひとつだろう。動物に心を寄せるのは、ただの心の娯楽である。別に高尚な意味などない。魚に心を寄せたり虫に心を寄せたり植物に心を寄せたりする人もいるだろう。心を寄せたものは食べられないという人もいれば、心を寄せたものこそ食べたいという人もいるかもしれない。

何を食うかで人を評価するなんて行為はどうにも下品だとぼくは思う。飽食で食うに困らない状況だから食い物を選べる。それだけのことだ。「自分で殺せないものは食べない」という俺様ルールも「一皿5,000円以下の料理は食べない」という殿様ルールも、ただの食道楽である。内面的優劣に関する限り、1mmの差異もない。「有機野菜しか食わない」とか「インスタント食品は食わない」とか「コンビニ弁当は食わない」とか「家で雇ってる元三ツ星シェフの料理しか食わない」とか、選べる人は好きなだけ自分ルールを制定して食を楽しみ、人生を楽しめばいい。

要するに、選ぶという行為はすでに娯楽要素を多分に含んでいる。今日のBGMを選んだり部屋に置くソファを選んだりするのは愉しい。そして、何事にも「選ぶ基準」を持つことが自分のライフスタイルを作り上げる。ライフスタイルというのは生きる道楽の総称である。○食主義というのも、その道楽を形作る一要素にすぎない。自分のスタイルというのはやっぱり人に認められたいし、いかに趣味がよく、いかに筋が通っていて、いかに素晴らしいかをアピールしたいものだろう。洋楽ファンがJPOPファンを馬鹿にしたりするのもそうした行き過ぎた自己愛の現れである。

ともあれ、きっこのブログがこうしたソフィスティケイテッドな道楽に肯定的だというのは意外だった。この手の道楽は人を選ぶ。選民主義的な臭いがついてまわる。ぼく自身は、選べる人間は選べばいいし、選べる自分を誇ることも悪いことではないと思っている。ベジタリアンがその食道楽の「妥当性」を主張して愉しむ言葉も、美食家がその食道楽の「意義深さ」を主張して愉しむ言葉も、ぼくには同じように興味深いし面白い。生きるためだけに止まらない食事や子作りを目的としないセックスを始め、恵まれた人生の大半は無駄を愉しむことで成り立っている。

ただ、偏食の人は気軽に呑みに誘えないのが残念ではある。


【関連して読んだページ】
「自分の手で殺せる生き物だけを食べよう」(きっこのブログ) - hituziのブログじゃがー
#血液型占いとかもバーナム効果だけじゃなく命名バイアスもあるだろうなあといつも思う。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/469

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索