300円分のお米と300円分のお金の決定的な違い

ベーシックインカムやなんかの話を見聞きしていると、世の中倒錯しているなと思う。

いや、倒錯しているのはぼくの方なのかもしれない。何の話か。お金とモノと価値の話だ。どうもみんな、他人が決めた価値を無批判に受け入れすぎなんじゃないかと思うのである。当たり前のことだけれど、300円分のお米と300円分のお金はまったく別のモノだ。なぜなら、モノの価値にはふたつの側面があるからだ。ありていにいうなら、「自分にとっての価値」と「みんなにとっての価値」である。いまにも飢えて死にしそうな人にとって、300円分のお米と300円分の消しゴムの価値は同じではない。それを同じだと思うためには、そう思える程度には裕福でなければならない。

そもそも、貨幣というのは交換を前提とした道具である。交換というのは余剰があって初めて正常に成り立つものだろう。余剰を出し合って必要なモノや何か別の余剰なモノと取り換える。人として最低限の衣食住すら余剰だというつもりがないなら、それはお金に変えられるものではない。誰かと交換してもいい「余剰の価値」を交換相手と擦り合わせる。それで、レートが決まる。そうやって決められたレートを数値化した先にお金はある。つまり、お金が担保する価値は多数決で決められた「余剰の価値」である。余剰でないモノの価値をお金で量ることは、原理的にできない。

お金というのはつまるところ、「強者の価値観を数値化したもの」にすぎない。もっというなら、強者のルールで遊ぶための「チップ」である。だから、「最低限の衣食住を賄えるだけのお金を手にしている」ことと「最低限の衣食住を手にしている」ことは、まるで意味が違っている。衣食住にさえこと欠く人間にお金を与えることは、「チップ」を渡して強者のルールで遊べといっているようなものだ。ベーシックインカムなんてものを考えるくらいなら、最低限の衣食住を現物支給する方がマシだとさえ思う。弱者が強者のゲームから降りられないというのは理不尽ではないか。

人は「お金がないと生きていけない」わけではない。みんなで「お金がないと生きていけないゲーム設定にしている」だけのことである。力を蓄えて強者のゲームに参加する気になれば、自ら進んでそうできる。そのとき初めてお金が必要になる。原始的な弱肉強食を信奉するのでない限り、その程度には成熟した社会を目指すべきだろう。余剰は生きる愉しみであるべきだ。なのに、「強者のルール」に殉じる人間が後を絶たない。お金のために死んでしまう人間がいるということは、「多数決で決められた価値」を自分の生よりも上位において生きる人間がいるということだろう。

そんな風にお金が生きる苦しみになる世の中はやっぱり倒錯している、とぼくは思う。

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comment - コメント

何か違和感があるぞ
まず、お金って言うのは価値を一般化したものだ。

物々交換の世界を考えてみる。
A氏は余剰のお米を持っていて、消しゴムが不足している。
B氏は余剰の消しゴムを持っていて、お米が不足している。
これなら取引成立で問題ない。

じゃあ、次の場合はどうだろう。
A氏は余剰のお米を持っていて、消しゴムが不足している。
B氏は余剰の消しゴムを持っていて、服が不足している(お米は足りている)。
これでは取引成立しない。A氏はお米を消しゴムと交換したいが、B氏は消しゴムを欲しがっていない。B氏は消しゴムを服と交換したいが、A氏は服を持っていない。

そこでお金が有用になってくる。
A氏はお米を欲しがっている人にお米をあげて、お金を受け取る。そしてそのお金をB氏の消しゴムと交換する。
B氏はA氏から受け取ったお金を服と交換する。

これで二人とも自分の欲しい物が手に入れられて幸せになった。
いや、あなたはこんなことは分かっているな
違和感の原因をもう少し考える

現物支給のためには、最低限という規定をはっきりしなければいけません。万人にとっての最低限というのは難しいでしょう。そして、現物支給をするとしたら、おそらく不公平のないように各家庭に同一のものを支給することになると思います。それでは個人の差異というものが無視されることになります。衣食住の中でどこに重点を置くのか、個人によって違うのは当り前のことです。
lylycoさんのおっしゃる通り、資本主義というのは弱肉強食のマネタリーゲームです。そのゲームの敗者でも、生活できるお金を受け取れるベーシックインカムは、資本主義国家においては最善の救済措置だと思います。あとは金額の問題と受け取った人の心の問題ではないかと思います。娯楽に費やしたためにお金がなくなり生活できないにも関わらず、国の策が悪いなどと文句を言う人が出ないとも言い切れないですしね。

考えがまとまらないが
まず、飢えた人にとって、300円分のお米と300円分の消しゴムの価値は同じではない。でも、みんなに取っては、300円分のお米と300円分の消しゴムの価値は同じだ。それが、300円という価値である。
だから飢えた人は、自分にとって価値の低い消しゴムを売って得た300円で、自分に取って300円以上の価値のあるお米を得ることが出来る。

つまり、「自分にとっての価値」と「みんなにとっての価値」を結びつけるのがお金ということだ。

お米とお金はそもそも需要が発生するものと発生しないものだから比べようがないんじゃないの?

> nkさん
お米が足りているA氏とB氏なら問題はないんです。nkさんのたとえでは、ふたりの交換の間に「お米を買う人」がでてきますね。問題は、ここです。これが「お金はあるし飢えてもいないけれど、たまたまお米が足りなくなった人」ならいい。けれども、窮乏している人というのは「お金は余っているがお米が足りない」という人ではないわけです。「余剰のお金」がそもそもない。だから「何か」をお金に替えて、そのお金をお米に替えなければいけない。それも余剰を持つ人が決めた交換レートで、です。で、その「何か」は現実には「児童の性」だったり「奴隷的な労働」だったり、たいてい非人間的なものなわけです。強者のルールで勝負する以上、貧乏人が金持ちに売れるものはそれくらいしかなく、しかも、強者たちが決めたレートで買い叩かれる、ということにならざるを得ません。だから、そんなゲームから降りられないというのは、ずいぶんと未成熟な社会だなと思うわけです。そして、降りられないことを誰もが「当たり前のこと」として受け入れすぎなんじゃないかな、と。それで、死ぬほど働いて本当に死んでしまう人までいるというのは酷く倒錯した世界なんじゃないかなぁ、と思ったんですよね。

> パルさん
本当に現実的に考えるなら、現物支給を「公平に」或いは「平等に」実行することは難しいと思います。その「公平」や「平等」が、そもそも「個々人の価値を一般化する」というお金の世界の考え方をベースにしなければ成り立たないからです。だから、ぼくが漠然と思い巡らせている妄想の現物支給は、飢えた人間がいたらひとまずタダでものを食べさせてくれる場所があり、家を失った人間がいたらひとまずタダで寝泊りできる場所がある…といったいかにもいい加減なイメージだったりします。そしてそれらは、遊びほうけて身を持ち崩そうが真剣に仕事をしていたのに運悪く落ちぶれようが関係なく利用できる。そういった種類の救済措置です。というのも、ひとつには「公平」だとか「平等」だとかいうものを信奉する価値観の先にこそ、「どうしておれが働いた金で貧乏人を養わなきゃいけないんだ」というようような「損得」にあまりにセンシティブな価値観があるように思うからです。…とはいえ、ここまでいってしまうと、いかにも現実味のない完全なるたわ言の世界ですね。

> Anonymousさん
nkさんへの返信にも同じ趣旨のことを書きましたが、現実に飢えている人は「消しゴム」を持っていないことが問題だと思うわけです。たいていは「消しゴム」の代わりに、たとえば「性」やら「労働」やらを売るということになる。そして、その「性」や「労働」の換金レートを飢えた人間が有利に決められるということはほとんどありません。だから、ぼくはそれを「強者のルール」と表現しているわけです。そして、ぼくには「自分(弱者)にとっての価値」と「みんな(強者)にとっての価値」がうまく繋がっているようにはとても思えないんですよね。

> jigaryuさん
jigaryuさんの仰るとおり、お米とお金は「比べようがない」ですね。そして、「比べようがない」のはお米とお金だけじゃありません。需要というのはそもそも個々人の中に無限の組み合わせとして存在するものだと思います。それこそ「豪邸」から「陰毛」まで多岐にわたる価値観の結果として無数の需要があり、だからこそ、およそ共感できない需要を持った人間というのはいくらでもいることでしょう。米とお金どころか、米と消しゴムも、日本一の豪邸とアイドルの陰毛も、何もかもが本来的には「比べようがない」。それをあたかも一般化できるかのように振舞うのが「お金」の世界でしょう。そして、さらにいうなら「お金そのもの」に対する需要だってこの世にはあります。使うためではなく貯めるためにお金を稼ぐ、或いは、稼ぐこと自体が目的化している人というのはそう珍しくありません。そんな「一般化された価値」を無批判に受け入れ、そればかりに汲々とする世界は倒錯している…というのは、このエントリーの趣旨の一端でもあります。

>lylyco
まず根本的なところで、僕はお金とか経済がそんなに悪いものだと思っていない。困窮している人にとって、お金がないことは苦しいことだけれども、だからお金や経済が無ければ困窮することも無いというのは間違っている。
そもそも、お金から離れて生きるというのはどういうことだ?それは自給自足の生活をするということじゃないのか?そして自給自足の社会にも困窮する人はいるぞ?干ばつや冷夏で作物が育たなかったら、飢えるしか無い。

あなたは、「経済市場では貧乏人は金持ち(強者)のルールに従うしか無い。」と言っているけれども、経済市場というのは強者(金持ち)の牛耳る世界ではない。交換レート(物の価格)は強者のルールではなく、市場のルールで決まる。このへんはちゃんと(ミクロ)経済学を勉強した方がいい。

そして、貧乏人が収入を得る手段が「児童の性」や「奴隷的な労働」しかなく、しかもそのレート(賃金)が雇用者の言い値にしかならず、過労死するほど働かされる社会というのは確かに未成熟な社会でしょう。だから政府は最低賃金や各種労働基準、生活保護制度などでこういった問題を解決しようとしている。
あなたは、これらの問題の解決策として「強者のルール(経済市場)から降りる」ということを提案するけれども、それって具体的にどうやるの?僕は「自給自足の生活に戻る」しかないと思うんだけど。

> nkさん
ぼくの言葉はどうも雑でいけませんね。ぼくもお金の世界がなくなればいいとはちっとも思っていません。お金の世界は(そこに正常な形でコミットできている限り)非常に有用だと考えています。まったく金持ちではないぼくでさえ、その恩恵を十二分に受けて生きています。そういう意味で、お金の世界はお金の世界で極めて積極的にあっていいものだと思っています。ただ、「それしかない」のはどうなんだ、と思うだけで。
ぼくが経済学に暗いことはもう見ての通りですが、ここでしているのはそんな学識を必要とするような話ではありません。「強者のルール」については、ぼくの物言いにかなり御幣があったようです。この場合の「強者」は、アラブの石油王みたいなお金持ちからぼくみたいな末端の貧乏人まで「市場原理の中でやっていけているすべての人」を含むものと思ってください。ぼくみたいな人間の購買行動も「強者のルール」に影響を与えているだろうことはそれなりに理解しています。逆に、弱者という言葉は「市場原理の中でまともにやっていけない人たち」といった意味合いですね。
そうした「弱者」の代表的な例は「子供」でしょう。日本人は彼らを市場原理と切り離して養うことを(いまのところはまだ)それなりに当然のことと考えています。少なくとも子供に生活に必要な最低限のお金を与えて「強者のルール」の中で生きていけとはいわない。お金ではなく、衣食住を含めて「面倒を見る」という形の救済を行っているわけです。それは「子供には市場経済の中で生きていくだけの能力がない」ということが当然のこととして受け入れらているからでしょう。けれども、「(一時的にか恒久的にかは別として)市場経済の中で生きていくだけの能力がない」人というのは年齢性別に関わらずいるわけです。そういう経済市場からあぶれた人たちを、家庭という小さな社会が「当たり前のこととして」子供を養うように、社会全体が「当たり前のこととして」を養う。そういう社会になればいいなあという、まあ、非常に無責任で妄想的な見解を示してみた…といったところでしょうか。そして、そのためにも「お金の(或いは、一般化された価値の)世界しかない」という認識の人ばかりではイケナイだろう、と。

>lylyco
なるほど、経済的な弱者を社会としてどう保護し、養うかという問題なんですね。でもそれは、社会が弱者にお金や衣食住を与えて、彼らを経済市場から切り離して養うだけではなくて、職業訓練など弱者を経済的に自立させるための援助が伴うべきでしょう。子供は親の保護下にあって、社会経済から切り離されているけれども、いつかは大人になって働き始める。そのために学校教育があります。もちろん、重篤な障害などで働くことの出来ない人は社会が養っていくべきだと思います。

それとは別に、社会に蔓延する「お金が全て」という考え方はやはり良くないものだと思います。お金や市場原理では解決しない問題はあるし、障害を持つ人や、何らかの理由で働くことが出来ない人も仲間として助け合っていける社会がより成熟した社会だと思います。

私も、弱者をより厚く保護し支援することには賛成ですが、彼らを救う手段として、経済から切り離してしまうことには反対です。保護を受ける弱者も、それにすがって働かず、社会経済から降りてしまっては困ります。

> nkさん
どういう人を「働けない」と認め、どういう人を「働けるのに働かない」とするのかといったことは実は相当にセンシティブな問題だと思っているのですが、救済対象についてはある種機械的に線引きするしかないのだろうなという諦めに似た思いはありますね。個人的には何度働きに出てもすぐに辞めて引き籠ってしまうような人だって実は「働けない人」なんじゃないかと思ったりするんですが、現実にはどこかで「自己責任」という伝家の宝刀を持ち出して救済の網から締め出すしかないんでしょう。それこそひとつの正解がでるような話でもないのでしょうし…。

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