「お金は使うためにある」とは限らない

こういう人が漫画やゲームにバンバンお金を使うのは何故か?

金の使い道 - ゲームの為なら女房も泣かす

たぶん、それに価値を見出しているからだろう。ファッションが好きな人は服にバンバンお金を使うし、車が好きな人は車に、パソコンが好きな人はパソコンに使う。難しい話ではない。それが目立つのだとすれば、単に消費のバランスが偏って見えるせいだろう。ファッションやグルメやインテリアや車やレジャーや人間関係の出費は最小限に抑えてゲームはしこたま買うとか、生活費を切り詰めてまでオーディオ機器に大枚を叩きまくるとか、そういう愛すべき馬鹿を趣味人という。ただし、趣味というのは極めて個人的なものだ。まったく同じものにまったく同じ価値を感じる他人はいない。

漫画好きが買い漁った大量の漫画本は、誰にとっても価値があるわけではない。もちろん、それは漫画に限らない。いうまでもないことだろう。そうやって漫画や他の何かに買い漁るだけの価値を見出せた人はいい。幸せといってもいいすぎじゃない。世の中にはそうじゃない人もいる。何を買ってもそれなりに楽しいけれど、別に集めたり手元に置いたりするほどじゃない。何を見聞きしてもさして価値があると思えない。生活費以上のお金の有意義な使い道がわからない。特別に欲しいものがない。そういう人だって、たぶん、価値を信じられるものにならお金を使いたいと思っているはずだ。

だから、今買いたいものが思い付かない人にとっても、お金を持つことには意味がある。というよりも、唯一お金だけが所有価値を持っているといってもいい。1万円札も使わなければただの紙だという人がいる。それをいったら、大量の漫画だって持ってるだけならただの紙だ。1万冊の蔵書を読み返す人はそういないだろう。読み返さないなら要らないじゃないかというのは趣味人の思考ではない。蒐集というのはそういうものだ。或いは、定価で買った稀覯本を持つマニアは、それが高く売れると知っていてもなかなか売らない。マニアにとって蒐集物は売るためにあるのではないからだ。

実は、同じことがお金にもいえる。あまりおおっぴらにいう人はいないけれど、お金が貯まっていくのは愉しいはずだ。買いたいものなんてなくたって、預金の数値が増えていくのはワクワクする。それ自体が目的化してもまったく不思議じゃない。蒐集本が「読むためにある」とは限らないように、お金は「使うためにある」とは限らない。ただ「使える」ことが大事なだけだ。蔵書が増えていくのが愉しいとか、CDの山ができていくのが愉しいとか、車が公道で出せないくらい高性能になって愉しいとか、トレーニングで日々腹筋が付いていくのが愉しいとか、そういうのと何も変わらない。

ポテンシャルとしての価値を蒐集することは決して奇異なことではない。

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価値、というのは人間の証なんでしょうね。なにに価値を感じるか、見いだすか、は、まさにその人そのものを語っている。価値観、とはその人の人生のこと、なのでしょう。
とすれば、価値、を追求するのも当然のこと。いわゆる生き甲斐だって、要するに価値観のことだ。漫画やゲームも、本人以外は、見た目通りに見るから、一言言いたくなるんだろう。ケチを付けるのは、別の価値観に基づいてるからなのは言うまでもない。

誰かが言ってたように、カネ、というのは、浪費は簡単だけど、使うことは難しい。それはともかく、人は自分の価値観を他人と比較したくなる時がある。その時、カネ、に換算するのが一番。なぜなら、カネ、の価値は誰でも認める。つまり、共通の基準になる。やはり、カネ、ってすごい。カネを貯めるのは自分の価値観の公開に備える準備でもある。カネは大切に貯めよう。

> 多さん
確かに、「カネ、に換算する」のは分かりやすいんですよね。そして、これが事態をややこしくしてもいるように思います。というのも、このとき換算の基準にできるのは、市場価値というやつでしかないからです。本来個人的な価値を生きているはずなのに、客観的には公の価値でしかはかることができない。そして、客観的にはかれない価値を自分の中で揺らがずに持ち続けることは案外難しい。だから、自分の価値観を声高に主張したり、それに反するものを声高に批判したりする人が後を断たないのかもしれません。そのひとつの帰結として、客観的な価値を確実に得たいなら金を持つのが一番、ということになる。まあ、味気ないといえば味気ない話ですが、そういう考えを否定することはできないとも思います。

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