ぼくたちが読んだ本の冊数を競うワケ

文系の人って読んだ本の冊数を競うけどなんで?

それはぼくたちが広い意味でコレクターだからだと思う。

たとえば、ミニカーを集めている人たちがいる。彼らはきっと自分のコレクションを自慢したいはずだ。そりゃあ、世の中には金にものをいわせて自分なんか足元にも及ばないミニカーコレクションを持っている人だっているだろう。それでもやっぱり、自分でコツコツと集めたコレクションは愛おしい。その愛を、努力を、素晴らしさを褒められて嬉しくないわけがない。ついつい、自慢げにコレクションを披露してしまう気持ちをぼくは批難する気にはなれない。ミニカーなんてくだらない。そんな風に切り捨てることは、あらゆる個人の価値観を否定することでもあるからだ。

たとえば、未開封のガンプラを集めている人がいる。すると、「作ってこそ価値がある」なんてもっともらしいことをいう人が出てくる。これもまた、個人の価値観を否定する発言である。モノ自体をコレクションするか、完成品をコレクションするか、或いは、製作したという経験をコレクションするか。どれが偉いという話ではない。いずれ、「数」に囚われた瞬間からその人はコレクターなのである。好きなものや好きなことは、いつの間にかそれなりの「数」になっているものだろう。そして、物量や経験量がある域値を超えたとき、たぶん、人はコレクターになるのである。

だから「セックスした異性の数」や「旅行した国の数」や「取得した資格の数」や「クリアしたゲームの数」だってコレクション対象になる。あらゆる物やあらゆる経験が自慢になり得る。何も不思議なことじゃない。そこに費やした膨大な時間、多大な労力、莫大なお金が、その人の中で価値となる。「読んだ本の冊数」だって同じである。「読んだ冊数に価値はない、どれだけ知識を身に付けたかが大事だ」なんていう人は、経験ではなく知識のコレクションに価値を見出しているだけのことだ。「読書経験量」も「知識量」も、要らないという人にはくだらないゴミにすぎない。

もちろん、だからといって無闇に数を競ったり、あからさまにひけらかしたりするのは、みっともないことかもしれない。けれども、「読んだ冊数を自慢するなんて大人げないよ」といって窘めるのと、「読んだ冊数に価値なんてない」と切り捨てるのは全然違う。価値がないなんていいだせば、印象派の絵をコレクションすることにも、希少な宝石を集めることにも、お金をたくさん貯めることにも絶対的な価値なんてないのである。もっといえば、およそこの世にあるすべてのものごとを価値がないといって切り捨てることができる。それが愉しいというなら止めはしないけれど。

ただ、少なくともぼくは、つい「数」を誇ってしまうコレクターの気持ちの方に共感する。

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