大金持ちになったら何がしたいか考えてみたけれど…

一生遊んで暮らせるお金があるというのは、やっぱり羨ましい。

それはたぶん、ぼくがそんな大金を手にしたことがないからだろう。それがあれば色々と煩わしいことから解放されそうな気がする。もちろん、気がするだけである。そうでもないだろうことは少し考えれば想像がつく。大金があったらあったでやっぱり煩わしいことは多かろう。それでも、仕事が辛いときは働かずに済む人が羨ましいし、欲しいものが買えないときは躊躇わずに買える人が羨ましい。「できない」ことは不満に繋がりやすいけれど、「できる」ことは案外満足に繋がらない。そんなものだとは思う。けれども、経験せずにその期待を完全に消し去ることはできない。

じゃあ、いまここで生涯収入の何倍ものお金を手にしたとして、ぼくは何をするだろう。考えてみても、大したことは思い付かない。住みよい家でも買ってインテリアやステレオを好きなように揃えようとか、最近カラダがなまってきたからスポーツクラブの会員にでもなるかとか、ちょっと高級なものでも食べてみようとか、のんびり旅行でもしてみようとか、まあ、せいぜいそんなところである。そうした生活は、いまのぼくからすればずいぶんと贅沢で、楽しそうに思える。けれども、早晩それが「普通」になってしまうだろうことも想像がつく。ただやってみたいだけである。

もし大金が手に入ったら、ぼくは仕事を辞めるだろうか。辞めるかもしれない。仕事には確かにふたつの側面がある。「必要なお金ための仕事」と「人生を豊かにするための仕事」だ。このふたつは心の中でやじろべえのようにふらふらとバランスを変える。ただ、「必要なお金のため」という側面がある限り、きっと心のどこかでは「せずに済むならしたくないこと」であり続ける。だから「必要なお金のため」に働かなくてもよくなったとき、ぼくは仕事を「辞めてみる」かもしれない。が、一生余暇しかない人生を生きることもできないように思う。ただ辞めてみたいだけである。

ぼくは自分が飽き症だと知っている。食道楽も女色も豪邸も不労の自由も実現した瞬間か、或いは、その直前くらいが幸せのピークになるだろう。あとは目減りしていくばかりだ。そして、また別の何かを欲しがるんだろう。けれども、なったことがないうちは「金持ちなんてつまらない」とはいえない。それは何も大金持ちに限らない。モテでも、高学歴でも、バイリンガルでもなんでもいい。一度くらいはモテてみたいし、東大に入れるくらい優秀な頭になってみたいし、海外でバリバリ働けるくらい英語を使いこなしてみたい。たとえ、できてしまえばそれまでだとしても、だ。

要するにぼくは、大金持ちに「なりたい」というよりは「なってみたい」だけなんだろう。

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