対人スキルの基礎となるレベル別「空気」の読み方

最初に断わっておくけれど、ぼくは空気読みを偏重する世の中を好まない。

「空気読め」

空気なんて読めなくても快適に暮らせる。その程度には寛容な社会になればいいと思う。空気を読めない人間が何か迷惑をかけたなら、それは迷惑だと怒ればいい。誰かが不快な思いをしたら、その言動は人を不快にすると忠告してやればいい。もちろん、あなたに誰かを教育する義務はない。空気の読めない人間を見下したり、常識のない奴だと切り捨てるのも自由だ。その代り、自分が見下され切り捨てられることを進んで受け入れられるなら、だ。あなたを含め、完全に空気を読み切れる人間はいない。コミュニケーションの不完全性については、今さらいうまでもないだろう。

けれども、空気が読めないことを我がこととして真摯に考えられない鈍感な人間というのはいる。自分は読めていると慢心しているのかもしれない。だから、そういう人たちに関わらざるを得ないとき、少しでも自衛する術を身につけておくことは無駄じゃないだろう。もちろん、空気に完璧な攻略法なんてない。せいぜいが、傾向と対策、或いは、心構え程度のことである。それでも、まったくとっかかりがないよりはマシだと思う。世間のいう「空気」には色々なものが混じっている。これが、話をややこしくしてもいる。以下、いくつかのレベルに腑分けしながら考えてみる。

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LEVEL 01:所属社会の常識やマナー

おそらく、いい大人が読めなかったときもっとも非難されやすい「空気」がこれだろう。一般に「常識」というと、「誰もが分かっていること」のように思う。大きな勘違いである。人はそれぞれ自分だけの常識を持って生きているにすぎない。それらの常識同士がある箇所では重なり合い、ある箇所では重なりきれずはみ出している。誰もがどこかはみ出している。ただ、この手の空気は「学ぶ」ことができる。比較的多くの人に共有されている「重なり」だからである。今ならインターネットがある。所属社会に一定の関心を向けていれば、これらを学ぶことはそう難しくない。


LEVEL 02:集団が持つ独自の性質

たとえば、学校のクラスだとか会社の部署だとかいうような特定の集団が持つ「空気」である。ここで必要とされるのは、社会常識ほど広範に使えるリーディング能力ではない。昔、インターネットの世界では「半年ROMれ」というようなことがよくいわれたけれど、要するにそれである。その集団ではどんな価値観が共有され、どんな慣習が形成され、誰がどの程度の影響力を持ち、それぞれの構成員がどんな役割を果たしているのか。その集団を観察し、ローカルな情報をできるだけ多く読み取る。この空気が読めないという人は、きちんと観察ができていないだけのことだろう。


LEVEL 03:その場その時の人間関係

たとえば、合コンみたいなものがこれの典型だろう。02が時間をかけて熟成された「空気」であるのに対し、こちらはその場で速成される「空気」である。といって、必ずしも初顔合わせの場合にのみ当てはまるわけではない。ある程度定常的な集団でも02の空気をベースに、その場その時の空気が常時形成される。さっきから誰それの機嫌が悪いとか、あのふたりの様子がおかしいとか、誰と誰の力関係が逆転してるとか、そういった即時性の高い「空気」だ。つまり、リアルタイムでの観察力が問われる。周囲の人の様子や声なんかに広く浅くアンテナを張っておくことが大切だ。


LEVEL 04:話し相手の気持ち

もっとも個別性の高い「空気」がこれだ。共有範囲が狭いということは、読み取り対象が少ないということである。即ち、読み取りエラーが検証しにくい。その意味で、あまり気にしすぎるのは精神衛生上よろしくない。ただ、円滑なコミュニケーションには、ある程度相手への配慮も必要だろう。が、相手の気持ちを十全に知る裏ワザなどない。そもそも、通常のコミュニケーションにそこまでの精度は要らない。相手の声や表情、態度なんかを見ながら判断できる範囲でいい。いずれ、大切なのは相手を見ること、相手に意識を向けることだ。空気の主体は自分ではない。相手だ。

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ずいぶんと大雑把に書き飛ばしたけれど、結局のところ「外に意識を向ける」ことがすべての基本となる。ある場に自分をおいたとき、まず「自分をどうしてやろうか」と考えるからうまくいかない。そういうケースは多い。意識が自分にばかり向いてしまうからだ。「空気」を読むときは主体性を捨てる。それくらいの気持ちでいた方がうまくいく。自分を取り戻すのは「空気」を感じてからでも遅くない。もちろん、読み取った上でどう振る舞うかは自由だ。空気は正義ではない。また、読み取った空気に対処するにも、それ相応のスキルが必要だろう。それはまた別の話である。

こうした対人スキルに絶対はない。たとえ身についたと思っても過信してはいけない。

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基本的に人の世は生臭い「力関係」の場であって、「空気」になじむスキルが取りざたされるのは学級会とかネットとかの「不自然に平等な場」限定のことではないかという軽い疑問があります。

「外に意識を向ける」というTIPSがどの程度お役立ちかはちょっとわかりません。
私の持論としては「空気読むのがしんどい」という人は、実は空気でなくその時々の具体的な人・状況におそれいってるのであり、それは―過度のビビリ症は―根本的には「他人に嫌われないように」というより上位の、自分のプリンシプルを言語化しようとする努力の欠如が原因です。

というようなことは、別に当面私自身にとってはどうでもいいんですが。
私がいま思うのは、一例として「空気読めない人」を想定してこのように三人称の記述をすることはできますが、自分のこととしてはそういうのは無理なのか。
「自分は空気が読めないで苦労しているのだが、それはかくかくの理由であると考えられるので、しかじかすれば理屈の上では解決、ないしはとりあえずの手当てはできるはずだ。わかってよかった」というスタイルの言説を見覚えないような気がします。
単に「共感」を募るものとか「どうにもならない理由はこれこれです」とかはよくあれども。

つまり自分のことだけはどうしても死角になるんだね…というような解釈はそれこそ浅薄なのであって。
最近人間の意識の重層性みたいなものがすごく気にかかっています。しかしその件について詳しく述べることはこの場ではできないので、以上とします(なんだそれ、という感じですけども)。

私、lylycoさんとはいちどお会いしてみたいと思うのですが大阪行くような機会は当面まずなさそうなので非常に残念です。

あぁ、「力関係」とかの使い方・意味が
記事上のそれと私が言うのとで違うのでちょっと変な感じですが
そこはそれ、もともと厳密にしようとしてもしょうがない種類の話であるのは暗黙の前提としてあると思うので
ついでに(?)そのあたりは読み流して下さい

> nさん
なんとなくですが、nさんの仰るような「力関係」がさほど明確じゃない場面が増えたのかな、という気はしますね。本来厳然としてあるはずの「力関係」さえ、読むスキルが著しく低いと見えなくなってしまうような。その上で、このエントリーは「空気は読めないのがデフォルト」だと割り切って、それなりの処世術を発揮するためにどうすればいいか、という話として書いたつもりです。ぼく自身は「空気読み」は本来的に不可能だと考えいるので、「空気が読めてない」と自覚することもまた不可能だと思っています。つまり、「自分は空気が読めないで苦労している」と自覚することはできなくて、大抵は「お前空気読めてない」という他者からの指摘や、場の白けた雰囲気なんかに直面して初めて「オレ読めてない?」と困惑するものなんじゃないかと思います。その意味では、個別的な失敗の反省はできても、総体的に「空気読み」が苦手だという人に効く処方箋はちょっと思いつきませんね。ただ、元来コミュニケーションが不得手なぼく自身の実感として、周りを落ち着いて見ることでずいぶんと人間関係が構築しやすくなったとは思います。

> nさん
先の予定みたいなものはいつどうなるか分からないものだと思いますので、来阪される機会が訪れたときはお知らせください。会いたいなんて思ってもらえるのは嬉しいことですし。まあ、さほど面白い人間ではないですけれども…。

「それなりの処世訓」を引き出してみようという主旨では、この世には空気読める人・読めない人、読めてる場合・読めてない場合 というのがそれぞれ独立に「ある」のだとひとまずは前提しないとどうしようもないわけですが、

私が個人的に最近気になることで、どうも「ほんとう」にはそういう違いというのは、これは「ない」んじゃないかということがありまして…
人間の健常な視覚によって見えている景色というのは平面でも立体でもない、脳がアクティブに構築するところの、光学的にはどこまでも定義できない「像」なわけですが、それと似たような話が「わかっている」と「わかってない」ということについてあるのではないかというような…
「認識」と「論理」の界面とでもいうか。いやまだそんなまとめて、ちゃんと言えるようなことは何もない。
「空気読み」ということがなにかひとつサジェスティブな感触がするだけで。

自分的に新発見かもしれない、いまだよくわからない「何か」に触れたような気がしたとき
私はよく周囲の友人をつかまえて自分でもよくわからないままに、よくわからないおしゃべりをしてみたものですけども、三十という歳になるとそういうつかみどころのない議論に付き合わせられる友達というものもいつのまにか居なくなっているもので、どうも寂しいものです。

まあでもご縁があってお茶かお酒の一杯でもおつきあい願える機会がありましたら、そんなのでなくて好きな本の話でもいたしましょう。

> nさん
たとえば「認識論」みたいな難しい話は正直よく解らないのですが、「空気」のような胡乱なものほど、その手のことを考える糸口としては向いているのかもしれません。
「自分でもよくわからないままに、よくわからないおしゃべりを」するというのは、ぼくも結構やりましたね。最近はそうしたことに頭を使うこと自体少なくなりましたが、今だったら、ブログに書いてしまうのかもしれません。これは自分自身との対話に近いので、実際に相手がいるのとはずいぶんと感触が違いますが。
ともあれ、好きな本の話ですか、そういうのもいいですね。

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