空気の読めない非コミュはネットで嬉々として空気を読む

ネット内に跋扈する非コミュたちは一見「空気読み」に否定的に見える。

たとえば、KYなど彼らには許容すべからざる言葉だろう。それなら、ネットは他人に空気読みを強要しない、或いは、空気の読めないユーザーに寛容な場所だろうか。ぼくにはそうは思えない。むしろ、逆なんじゃないかとさえ思う。「ネタにマジレス」だの「嘘を嘘と見抜けない人に…」だのといった定型の嘲りにしても、相当時間ネットに張り付いていない限りそこまで読めないだろうというような文脈に基いていたりする。そして、普通に読んでもギャグや冗談に見えない言説に本気で噛み付いた結果、「ネタにマジレスかっこ悪い」などといって馬鹿にされてしまうのである。

そもそも、郷に入っては郷に従え式の排他精神は、以前からネットの方により強く根付いてきたように思う。「半年ROMれ」といった定型句にもそれは表れている。なまじネットが幅広いユーザーに開かれているばかりに、こうした淘汰の仕組みが必要になるんだろう。現実世界では、その辺の普通の中学生が間違って大学の研究室に紛れ込み、哲学論争に首を突っ込んで滅茶苦茶にするなんてことはまず起こらない。中学生らの遊び仲間と哲学科のゼミ集団とは物理的に交わることがないからだ。そうした物理障壁が限りなく低いネットで排他のルールが作られるのは必然にも思える。

ところが、こうした理屈は今や知識レベルや話題の住み分けを超えて利用されている。便利な仕組みが恣意的に運用されるというのは、まあ、よくある話ではある。コミュニティの効率的な運用や活性化のための仕組みは、ただ自分たちの空気を乱さず気持好く馴れ合える場を維持するために利用される。或いは、自らの優位性や自尊心を維持するためにも。それはたとえば、通りすがりの閲覧者があるブログに残したコメントに対して、はてなブックマークのコメントで茶々を入れるような態度に表れやすい。話題のエントリーにズレたコメントを書いてしまった人など悲惨である。

そんなズレた通りすがりに対するネガティブな反応は、現実社会における非コミュ排除とよく似ている。現実社会でコミュニケーション巧者たちが空気を乱す非コミュをKY認定するように、ネットに安住する非コミュたちは闖入者をメンヘル認定などして排除するのである。どちらも気持ちの好いコミュニケーションを守るための同調圧力であるという点で同質だろう。自分を排除する現実の「空気読み」を否定しながら、ネットでは嬉々として空気の読めない闖入者を排除する。弱い者が別の弱い者を見付けて叩くようなものである。その態度は矛盾しているし、極めて不健全だ。

まあ、無矛盾で健全なものだけに価値があるなどというつもりは毛頭ないけれど。

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