仕事を「えり好み」する失業者のいない世界は怖い

たとえば、失業者たちが体を張って仕事を「えり好み」しているという。

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ぼくにそれができるか、といわれると無理かもしれないと思う。労働条件がどんなに悪くてもとにかく働き口を探さねば。そんな風に考えてしまいそうだ。これは素晴らしいことだろうか。否、だろう。そんなものを「覚悟」とは、たぶん、いわない。あえて酷いいい方をすれば、「いま貰えるもので我慢しよう」という至って消極的な態度にすぎない。背に腹は代えられない選択なんて、別に褒められたものではない。それでも失業者の「えり好み」が就業者に批難されるのは、「自分だって不満はあるけど我慢して働いてるんだ」という意識がどこかにあるからじゃないかと思う。

人口100人の世界に職が80口しかないなら、あぶれた20人を生かすか殺すかは100人それぞれが考えなければならない。生かすなら職を100に増やすか、80が20を養うかする必要がある。たとえば、多くの人が養うのは厭だという。80分の1に入れなかったのは自己責任だともいう。こうした自己責任論は世界を変えない。何故なら、全員が死に物狂いで頑張っても20人は必ず競争に敗れるからだ。ない席に座ることはできない。つまり、競争に敗れた者は死んでも仕方ない、というのがこの主張の着地点である。そして、仕事を「えり好み」するなという主張も、たぶんこの延長線上にある。

100人の内3人は年収1億の職にある。ある者は必死の努力で、ある者は運と才覚で、ある者は棚から牡丹餅でそれを手にした。また別の7人は年収5,000万の職にある。ある者は人生のすべての時間を仕事に捧げ、ある者は人生の半分を遊びながらそれだけの収入を得ている。ある50人は年収500万の職にある。それなりに辛いこともあるがそれなりに幸せで人生それなりに頑張って生きている。ある20人は年収100万の職にある。1日20時間を過酷な単純労働に捧げ、爪に火も灯せないような暮らしをしている。それでも職がないよりはマシだと耐えている。そして残りの20人には職がない。

そこへ救世主が現れる。年収50万の職を15口と年収200万の職を5口用意しましたよ。50万の方は1日8時間ケーキの上にサクランボを乗せるだけの簡単なお仕事です。200万の方は1人当たり30人の要介護老人をお世話するお仕事です。さて、失業者たちは「覚悟」を決めてなりふり構わず働くべきだろうか。前提を否定する態度は不遜だろうか。唯々諾々と現状を受け入れ、過酷な生を生きることは、いったい誰のためになるんだろう。そんな態度は、いずれ平凡な50人をも食い潰すかもしれない。明日から年収200万ね、と宣言され、雲の上の3人が年収1.5億になっているかもしれない。

こうした単純化が、様々な問題を捨象していることは分かっている。何が捨象されているかをすべて知っているわけではないけれど、たくさんの大切な視点が欠けたカリカチュアであることは自覚している。また、これは「幸福の多様性」を云々する類の喩え話でもない。年収50万でも幸せならいいじゃないかとか、そういうのはまた別の話である。繰り返す。問うているのは、現状を受け入れる「覚悟」が何を生み、世界をどう変えるのか、だ。そして、その先にあるのは誰にとって生きやすい世界なのか、である。少なくとも我儘や怠惰を許さない世界は、ぼくの好みではない。

「えり好み」する失業者を叩くのは、自らの立ち位置を確認してからでも遅くないと思う。


【関連して読んだページ】
la_causette: 失業者が仕事を「選り好み」すること
#「却ってプラスに計上される」ことを受け入れる人は一定数いるんだろうなぁ…。

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comment - コメント

りりこさんの指摘も、ひとつもっともでしょう。
でもこの手の「自己責任論」は実は自己責任論でないのだし、なんというかあえて反駁するに足る重みすらないのですよね。
イズムでない。

世の中には亀田一家を憎んだりハケン村を蔑んだりしながら日々仲良く暮らしていける一群の人びとがあることよ、と
いつものように思うだけで、それ以上何も考えられない。

そこをあえて論をこねくっていく、はてな的な面白みというものも結局わかりません。

> nさん
確かに、いわゆる「自己責任論」の中には、「あいつらウゼぇ」といった類の不快表明にすぎないものが少なくないようですね。主張というより野次に近い。といって、そんな野次が飛ぶような社会にあって、「社会とは、人とは、そういうものである」と達観することもぼくには難しい。つい、どうしてそんな風になるんだと、考えても詮ないことを考えてしまう。まあ、そうした愚考の集積がこのブログの一部をなしてもいるわけですが…。

達観ということは私としてもぜんぜん無理なのでして。
山本夏彦とか呉智英みたいに、人間とはあるいは衆愚とはそういうもんだと観照できるだけの体力があればいいのですが。

私の場合、思考停止の紋切り型的な言辞に接すると、ただキズつき寂しくなってしまいます。
それをひとつの現象としていったん受けとめた上でひとつ、ある観点からの考察を述べてみようか、といったことは私にはできません。

いや、やぶからぼうに思考停止とか寂しくなるとか言っても意味不明かもしれない。
べつにここでリリコさんをつかまえてどうしてもわかってもらおうという筋合いの話でもないので、ただ「そうですか」で結構なんですけども。

「滝山コミューン1974」を作者に書かせた動機というのが痛いほど理解できます。
あるいは笙野頼子「レストレス・ドリーム」、お読みになったことありますか? いやあってもなくてもいまべつにそれがどう ということはないのですが。
どちらも作品そのものの「達成度」ということではまた微妙なものがあるし。

> nさん
残念ながら「寂しくなる」気持ちを本当に共有することは難しいといわざるを得ないですが、そういうこともあるんだろうと想像することくらいはできる気がします。そういう文脈とは別に、『滝山コミューン一九七四』は面白そうですね。読んでみたいと思います。笙野頼子は別の本を以前に読んで少々苦手意識があるのですが、こちらもamazonの紹介文を読んで、存外、好みな気がしてきました。

それしかない、というのは選択ではないし、そうである以上、自己責任とも関係ない。
もっと困っている人がいるんだからガマンしろ、というのはどうか。もっと困っている人がいる、そのこと自体は、常に現実として事実であると思う。しかし、では、なぜその、もっと困っている人を基準にしなければならないのか。その辺を説明してもらいたい。
こんなところで、どうでしょうか

> 多川さん
現実としている「もっと困っている人」が放っておいたら死んでしまうというとき、それを放っておくか救うかは結局のところ思想信条の問題でしかないんでしょうね。放っておくべき理由も救うべき理由も、たぶん個人の中にしかないし他人と共有することもできない。偶然、気が合うということはあっても、です。ただ、さしたる思想もなく深く考えもせず、ただいま自分が死にかけていないという理由だけで「放っておくべき」と主張する人がいるなら、その主張が意味するところをちゃんと認識した方がいいんじゃないかとは思います。

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