「政治的意味」と「政治的意図」は区別すべきか否か?

「~だけ」は政治的意図を排除しないが、存在証明になるわけでもない。

「~だけ」は政治的意図を排除しない - 過ぎ去ろうとしない過去

確かに、「100人の貧乏人が首相の豪邸を見学するというのは政治的メッセージをはずしようがない」。そんなことは誰が見ても明らかなことで、だからといって公権力がそれを蹂躙していいなんて理屈もあるはずがない。そんなことは大前提である。ある思想的立場に立てば、ここに疑義を挟む議論も可能かもしれないけれど、あまり説得力のある例があげられそうにないので割愛する。ともあれ、ぼくは「彼らに対してコミットする気が無い」ので、「政治的意図があると言わないのはギマンである」なんてギマンを口にする気はない。ただ、ツマラナイと思うだけだ。

そんな個人的感想は置いて、意味と意図の話だ。彼らの行動は明らかに「政治的意味」を持っていた。「歩いただけ」と主張している人たちも、当然自分たちの行動が「政治的意味」を持つことを自覚していただろう。だから警察も動いた。問題はこの先だ。「政治的意味」を持つ行動を、「政治的意図」を離れて取ることが人間には可能だ。そのとき「意図」をどう扱うべきかは、ぼくにとって結構な難問である。そして、心情的には「意図」をこそ問題にしたいという気持ちがある。むろん人の心など知りようがない。だから、それは意味のないことかもしれない。

数日前、街中で見た自民党のポスターに「死ね」と落書きがされていた。それは多分に「政治的意味」を持っている。けれども、そこに「政治的意図」があったかは甚だ疑問である。もちろん、自民党が嫌いで書いたのかもしれない。或いは、自民党のことなどほとんど考えたこともないけれど、ただムシャクシャして書いたのかもしれない。はたまた、書いた場所はどうでもよくて、そこにあるのが質屋のポスターでもやっぱり「死ね」と書いたかもしれない。それどころか、さしたる意味も意図もない子供の悪戯だったのかもしれない。その真実を知ることは難しい。

ところが、この落書き犯が捕まった。犯人はその落書きが「政治的意味」を持つと知っていて書いたという。けれども、彼は自民党どころか日本の政治自体にまったく興味がない。実は、好きな人が大の自民党嫌いだと知って、気を引くためにそんな落書きをして回っていたのである。…というようなことがあったとして、ぼくはそこに政治的な行動として意味を見出す気にはなれない。それはぼくにとってはラブストーリーであって、ポリティカルストーリーではないからだ。だから、ぼくは個人の意図に興味を持つ。それ自体がおそらく政治的態度ではないのだろう。

豪邸見学ツアーのあまりにお粗末な顛末に、ぼくは雨宮氏や集まった「貧乏人」たちの意図を疑った。もしや、「注目を浴びること」や「お祭騒ぎに参加すること」が目的で、「政治的意味」はそのために利用されただけなのではないか。だとしたら、擁護したり批判したりして話題にしてあげるのは彼らの思う壺なんじゃないか。そうした妄想は、ぼくが「hokusyu氏に叱責された腹いせ」や「粘着劇ではてブを稼げるかも!」などという邪な理由でこのエントリーを書いている可能性と同程度にはあり得るんじゃないかと思う。だとしたら、実にクダラナイ話である。

無粋を承知で書くけれど、彼らに「政治的意図がなかった」といっているわけではない。

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