「やる気」に応えられない人が「やる気」を問うな

「本当にやる気あるの?」というのは、やる気に応じられる人にだけ許される問いだろう。

派遣村:「本当に働こうとしている人か」と坂本総務政務官 - 毎日jp(毎日新聞)

実際、派遣村にどれだけ「本当に働こうとしている人」が集まったのかは知らない。ただ、坂本総務政務官は彼らが全員本気だったなら何か手を打てたというんだろうか。本気に応えるだけの職を全員分用意できるとでもいうんだろうか。それができないなら本気を問うことに意味はない。にもかかわらず「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのかという気もした」などというのは、言外に「彼らが救われないのは本当に働こうとしていないからだ」とか「本気で働こうとしない人は救われてなくても仕方ない」なんて思いを含んではいないか。

政治の役割のひとつは「自然な状態の不具合を不自然に調整すること」だろう。それは例えば、放っておいたらダメになるものをダメにしないということである。「実力のある者が生き残って、実力のない者は食い詰める」なんて自然な状態を当然のこととして受け入れるなら、そもそも政治は要らない。先の問いが、「本当に働こうとしている人」には職を、そうでない人には最低限の生活を保障しましょう、という意図で発せられたのなら政治的に有意だといってもいい。そうでないなら、政治の無力を自己責任に転嫁する以上の意味はない。少なくとも政治家の発言ではない。

こうした無責任な「本気を問う声」はネット上にも溢れている。そして、それを問う人の多くは、たとえ相手が本気だったとしても、それに応えたりはしないのである。どころか、結果から勝手にやる気を逆算したりするのだから酷い。本人がいくら「本気だ」といっても、「本当に本気なら働き口がないはずはない」などといってそれを認めないのである。相手の本気を確認して、「そんなにやる気があるなら、オレと一緒にひと山当てようぜ!」とか「本気ならうちで働きなよ!」とかいってその本気に応えている人を、ぼくはほとんど見たことがない。なら訊くなよ、と思う。

或いは、自分は本気でやってきたから大丈夫だと思いたいだけなのだろうか。

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非正規雇用は何をもたらしたのか、私はそういう点から考えることにしています。なぜなら、非正規雇用そのものを直接、特に善悪という観点から考えると、収集が付かなくなるので。
では、何をもたらしたのか。それは、モラルの崩壊。正規でないことやるんだから、モラルが崩れるのも当然でだろう。その意味では偽装請負なんて不思議無いし、いまもはびこってるだろう。
キャノンと松下電器の偽装請負には失望した。ものつくりへのプライドはもう無いのかも知れない。事件が明るみに出てから、両社のものは買わないことにした。乾電池、蛍光管、プリンター等々すべてパナソニックとキャノン以外。だって、違法行為で製造されたものが正規の品質だなんて、論理的に成り立たないからです。
非正社員を使うのは、会社に正社員として雇用する体力が無いと言うこと。そのことは肝に銘じておく必要がある。つまり、日本の経済力の本当の実力はどの辺なのか、と言うことです。

選ばなければ仕事はいくらもある、というのは本当なのか。暮らしていける給料が得られるものでなければ仕事とは言えない、と定義すれば、明らかに嘘です。そして、仮にあったとしても、簡単に転職出来るものではない。仕事があるはず、というのは、ようは、地球上のどこかにはあるよ、というレベルの話。そんな話にいちいちまともに応対していたら、それこそ仕事探している時間も気力も体力も無くなってしまう。だったら何も考えず日比谷公園のテント村に行くのがベストになるのは理論的に正しい選択になるわけです。

具体的には確認できないのだが、私の毎日の生活も、どこかで非正規社員の人々からの恩恵を受けていると思う。で、少なくとも、契約打ち切りの前日まで、生産に貢献してきたのに、なぜ感謝の言葉ももらえないのか。俺は、まず、ご苦労様でした、と申し上げたいですね。派遣、というのは、派遣先と派遣元の二つの会社を儲けさせてあげること。とてもじゃないが、俺はそんな博愛主義は無理。そしてその非正社員こそが日本の経済を支えてきたんだ。そのことは、これからどんどん明らかになる。そのことだけは忘れないようにしましょう。

> 多川さん
「日本の経済力の本当の実力はどの辺なのか」という問いは、場合によってはパンドラの匣かもしれませんね。アメリカ経済は金融工学の最先端で底上げに底上げを重ねてきた結果、今みたいな惨状を呈しているわけですが、日本のそれは果たしてどの程度の虚飾に彩られているのか…。仰るような雇用関係の歪み、もっといえば、搾取による底上げまで含めて考え合わせるとどうにも悲観的にならざるを得ません。しかも、多川さんも書かれていますが、そうした歪みの恩恵をも受けて今のぼくや周囲の人たちの「それなりの暮らし」が成り立っていることもたぶん事実なんですよね。そして、ぼくを含む今現在「それなり」の人たちが、その安寧を捨てて歪みの是正に邁進できるかというと、これもやっぱり悲観的にならざるを得ない。その意味で、こんな批判エントリーを書いているぼくも、結局は件の政務官とさして変わらない罪を負っているのかもしれません。

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