運と才能に恵まれて初めて「孤独」は許される

実のところ、他者というのは酷く面倒な存在だ。

できれば他人なんかとは関わらずに生きていきたい。もちろん不可能である。けれども、極力関わりを減らして生きることはできる。ただし、そのためには自身の市場価値を相当に高める必要がある。少なくとも今の時代に先進国で生きるためにはそれが不可欠だ。なにしろ、衣も食も住も市場の中にしかない。人と極力関わらないということはつまり「極力自分の市場価値だけで市場から衣食住を獲得する」ということだからだ。これは恐ろしく難易度が高い。至高というべきは「ただ生きているだけで市場価値がある」という状態だろう。そんなのは天皇くらいしか思い付かない。

だから、普通の人は他者との関わりの中で市場価値を補い合う。その典型が会社みたいな市場価値を生み出すための組織だろう。組織内での価値の大小はあれ、どんなに偉い重役でもその人個人の市場価値は大したものではない。別の組織の重役としてもうまく機能するかもしれない。そういう意味での信用はあるかもしれないけれど、あくまでも組織の一員として機能することを期待されているのであって、それは単体での市場価値とは別のものである。どんな高性能エンジンも駆動すべき本体を持たなければ市場価値はないに等しい。市場価値があるのは車であり、飛行機である。

或いは、高性能エンジンどころかボルトやネジとしてもほとんど市場価値が認められない。そんな人間もいるだろう。それはその人に価値がないということではないけれど、市場から衣食住を引き出せないことに変わりはない。こうなると、人はより切実に他者と関わらざるを得ない。市場から引き出せない衣食住を特定の他者に依存するのだから当然だろう。ありていにいえば、食えないときに飯を食わせてくれるような人間を作れ、という話だ。そして、それを担保するのは市場価値とは別の「個々人間の価値」である。それをコミュニケーションなくして創造することは難しい。

ならば、親の庇護下で子供を孤独に慣れさせるべきではない。自らの運と才能にかけるだけの気概も自信もないなら孤独を愛したりすべきではない。個人主義に浸り孤独を愛するような人間になってしまってから、ボルトやネジ程度の市場価値もないことに気付いても遅いのである。ボルトやネジ程度の市場価値しかないにもかかわらず、それを生かすための人間関係すら築けないような人間にこの不自由な世界を生き抜くことは困難だ。市場というのはある種のコミュニケーションの場である。そこから外れても生きられる。世界はそうあるべきだけれど、それはまだ現実ではない。

孤高など恵まれた人間だけに許された贅沢と肝に銘じるべきである。

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