世間には自らの才能に自信のある人が多すぎる

実力主義や成果主義に賛同する声は意外なほど多い。

才能あるレジのおばさんにはそれ相応の給料を払ったほうが良い - コトリコ
はてなブックマーク - 才能あるレジのおばさんにはそれ相応の給料を払ったほうが良い

実力があり、何かに貢献している。そういう人は何らかの形で報われてしかるべきだとぼくも思う。ただ、リンク先のような考え方には諸手を挙げて賛成はできない。あまりに素朴で短絡的だとも思う。たとえば、怒られていた新人の女の子がとても可愛くて、人当たりも良く、お陰で密かに店の売上に貢献していたとする。その場合、そのルックスや対人スキルに対してもやっぱり相応の給料を支払うべきだろう。そうした「現時点で給与に反映されていない才能」は、レジ打ちのような分かりやすい才能に限らず数多存在するはずだ。それらすべてを公平に評価することは難しい。

会社のように集団で働くことを考えると、そうした評価はより難しくなる。たとえば、本人の生産性はそれほどでもないけれど、とても気持ちの好い人物で、周囲の雰囲気をポジティブにする人がいる。実はチーム全体の生産性にもの凄く貢献しているのだけれど、誰もそのことに気付いていない。そんな才能もあるだろう。逆に、本人の生産性はもの凄く高いけれど、チーム全体の生産性にはさして寄与しないという才能もあるだろう。おそらく、前者は評価されにくく、後者は評価されやすい。後者だけを優遇することで生活レベルに格差が生まれることは果たして当然だろうか。

或いは、あらゆる利益への貢献度を正しく量ることが可能だと仮定しよう。それでもぼくはその対価をすべて給料に反映することには、やっぱり、あまり賛成できない。それは市場原理に適った才能や実力「だけ」を、即、生活レベルに直結させることだからだ。逆にいえば、才能や実力や運に恵まれなかった人は生活が苦しくなって当然だということになりかねない。リンク先のはてなブックマークで賛意を示している人たちは、たぶん自分の才能に自信があるんだろう。もしかすると、自分は正しく評価されてないとさえ思っているかもしれない。その自信は少し羨ましくもある。

リンク先の提言は「本当は市場価値があるのに正しく評価されていない才能を正しく評価しよう」というものだ。つまり、成果主義、実力主義を今よりもっと徹底すべきだという意味を持っている。ぼくは自分の市場価値が世界ランキングでそれほど上位に位置するとは思っていない。そんな完全成果主義が世界規模で実現したなら、市場価値の高い人から順に富を手にし、ぼくの順番が回ってくる頃にはずいぶんと目減りしているのだろうと思う。少なくとも今よりも豊かになると無邪気に信じられるほどの自信家ではない。ぼくの生活は、ぼく以外の多くの才能に支えられている。

いずれ、生活レベルの格差化でしか貢献に報いられない社会が幸せだとは思えない。

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