個性には価値ある個性とそうでない個性がある

個性の話をするとどうしても言葉遊びになる。

そもそも君らに個性などない - 地下生活者の手遊び

個性は誰にでもある。個性の定義次第ではそういうこともできる。辞書的な意味でいえば、むしろ個性がない個を想定する方が難しい。個を識別し得る性質を個性というなら、個性のない個は個として認識できないことになる。誰でも思い付くようなモチーフで稚拙な絵を書いてしまう。これを類型的だと捉え、没個性だという。けれども、その稚拙さがいくら類型的だろうと、100人の稚拙な絵はやっぱり100通りある。まったくの他人がまったく同じ絵を書いたらそれは超常現象の類だと思った方がいい。要するに、差異が大きいほど個性が強いといわれるだけのことだ。

以上の理由から、ぼくは自分に個性があることを信じて疑わない。少なくとも周囲の人は、ぼくを個人として認識してくれている。だから、リンク先にある「個性というものは目標としてあるもの」というような考え方はずいぶんと飛躍しているように思える。むしろ、これこそ本当の意味での「個性重視・個性賛美」だろう。個性という言葉にえらく高等な意味付けをしている。素で「自分にはデフォルトで個性があると思っちゃっている」ぼくとしては、逆に、個性なんてそんな大層なものじゃないだろうって感じだ。「個性的な顔立ち」という日本語をぼくは認める。

そんなぼくはリンク先で非難されているような型の「個性重視・個性賛美」を一種の「平等主義」だと考えている。個性は万人に備わっている。それ自体に優劣はない。個別に切り出された性質に優劣はあるかもしれない。けれども、個人に備わった性質は多岐に渡る。個性とはその総体だ。たとえば、口が利けないことは不便だ。けれども、その不便はあらゆる別の性質に影響を与える。もしかすると口語以外の表現力が図抜けて発達するかもしれない。ならば、総体としてマイナスだと断ずることはできない。つまり、どんな個性も軽んじられるいわれはないのだ、と。

これは「差別」や「格差」意識に対する予防線としての「個性重視・個性賛美」なんだろう。決して偉大な芸術家が持つような「天賦の才能」を誰もが持っているという意味ではない。リンク先にある「個性」というのは、むしろこの「才能」に近いように思う。たとえば、絵の才能なら「何を描くか」と「どう描くか」で価値が決められる。「どう描くか」の部分には技術が不可欠だろう。技術がなければ、いくら個性的な妄想があっても描けない。そして、技術をどこまで延ばせるかは個性に依る。個性が生んだ「人に評価され得る」能力を才能という。結論はこうだ。

そもそも君らに「価値ある」個性などない。

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リンク先の文章において、「“価値ある”個性」を「個性」、
「“価値なき”個性」を「個体差」と読んでいる気がします。

もっとはっきり言ってしまえば、“《社会的に》価値があるか価値がないか”。
その意味では「(リンク先の文脈における)個性」は尊重されるべきでしょう。

とはいえ、「(日常言語における)個性」は価値判断を含んでいない言葉です。
『個体差は卑下するものでも称揚するものでもないはず。』と謳うように。

私たちが目指すべき「“価値ある”個性」とは、
“どう描くか”よりも、“どう描けたか”に依存します。
絵描きの例で言うならば、「個性的」とは、完成された絵に向けて使われる言葉です。

私たちが求めている、求められている「個性」とは、
当人にしかできない「仕事」であり、「癖のある生き様」ではありません。
その当たりの齟齬が個性論をややこしくしている感があります。

個性というものを何か天与の祝福のような、人権まがいのものとして称揚するのも、それに対抗し、優れた才能や技能以外は個性とは言わぬ、となぜかふんぞり返ってみるのも、「個性」の一語に過剰に思い入れしてる時点で同じことですわね。

こないだの「承認」にしても、はてな界隈の議論って実につまらない言葉遊びが目に付きますね。キイワードで繋がるシステムの弊害なのか。

> 棚旗織さん
リンク先の「個性」と「個体差」については仰る通りだと思います。そしてより正確を期するなら、「求められている『個性』とは、当人にしかできない『仕事』」には、棚旗織さんご自身が前段の方で仰っている注釈を付けるべきでしょうね。「求められている『個性』とは、当人にしかできない《社会的に》価値のある『仕事』」である、と。
ぼくたち職業デザイナーの世界では、よく「デザイナーはアーティストではない」といういわれ方をします。これはデザインはあくまで客の目的に寄り添って作られるべきものだ、という戒めの言葉として使われます。けれども、アートがアートとして成立するのに社会的評価を前提とするなら、アーティストも顧客のニーズに応えるごく一般的な職業のひとつにすぎないのかもしれませんね。貴族世界の画家たちは、あくまでもパトロンのために絵を描いたわけですし。もちろん、好き勝手にやった結果、たまたま世間に認められるという形の成立過程もあるでしょうけれど。
また、ただの「癖のある生き様」でさえ社会的評価を得られれば、価値ある個性として換金可能だったりもしますよね。そんなことを考え出すと、ますます一筋縄でいきません。そして最終的には、各個人が対象物を見てその価値を判断するしかない、という主観の話に落ち着くわけです。

> nbさん
確かに、言葉遊び的な印象は強くありますね。ただ、この手の議論の外野から見た面白さは、語義を定義しないことによる意見の広がりにあるように思います。個人的には、たったひとつの言葉にこれだけ色んな意味を託している人がいるのか、と知るだけでもちょっとした驚きはありますね。
どうしても議論の体をなさないという歯痒さはありますが、混沌とした言葉の羅列の中に、ときどき本質的なところに思考を連れて行ってくれそうな発見があったりもします。まあ、実際に自分で書いてみると、やっぱり表層を撫でているような胡乱な文章になってしまったりするわけですが…。

 「個性」を“特別なモノ”と見なしていると言うよりは、“特別な何か”を「個性」と読んでいる気もします。


 それよりも、これほどまでに「個性」が賞賛されている背景には、人間が多すぎる問題があるでしょうね。

 大半の人間が画一的な農業をしていた時代はともかく、今の日本では個々人が“それなりにクリエイティブな仕事”をせざる得ません。いえ、別に単純労働にいそしんでもかまいませんが、中国人やインド人にも出来る単純労働をする限り、中国人やインド人と同じような見返りしか期待してはいけません。つまり、ワーキングプアになれ、と。

 と、まさかワーキングプアを推奨するわけにはいきません。タダでも傾いている国の税収がさらに落ち込みます。

 一億総ナンバーワンになってもらえれば社会として大変助かるのでしょうが、さすがにそこまで、“天賦の才”がすべての人に備わってはいません。ナンバーワンにはなれません。

 じゃあ、せめてオンリーワンになってよ。ニッチ産業にいそしんでよ、というのが「個性」礼賛のバックグラウンドではないかな、と考えました。ほとんど思いつきで申し訳ありませんが。

 個人的に言葉遊びは嫌いじゃありません。言葉でしか交われない世界において、言葉で戯れず何で遊ぼうか。ただ、言葉を廻すなら簡単な記号論は背景に持ちたいですね。そして、谷崎潤一郎くらい美しい言葉で狂言を遣えたら、文章の中身を無視して惚れます。

> 棚旗織さん
人間が多すぎるといえば、団塊世代が働き盛りだった頃の方が当てはまる気がしますね。つまり、画一的な大量生産大量消費が幸福たり得た時代です。今、「個性」を求められている世代というのは、むしろ人口的には少ないんじゃないでしょうか。調べていないので断言はできませんが。
それよりもむしろ、今はひとつのクリエイティビティが昔ほど多くの人間の幸福を担保しなくなった、という方が現状を表しているかなと思います。戦後のテレビ、冷蔵庫、洗濯機。高度経済成長期のカラーテレビ、クーラー、マイカー。三種の神器なんていわれた当時のイノベーションは、消費活動と雇用の増大という多くの人が享受可能な「幸福」を生み出しました。ところが、当世のイノベーションはごく限られた一握りの人間にしか幸福が分配されないような規模でしかあり得ない。つまり、人口云々より一イノベーションあたりの幸福量の低下が、競争社会をより厳しいものにしているんじゃないか、と。

…言葉遣いに惚れる、ですか。本論からはまったくはずれますが、ぼくが著名ブログに対して持っている最大の不満が、文章表現力の貧しさだったりします。内容重視ということなんでしょうけれど、それにしても言葉選びの粗雑な大手が多い気がします。ぼく自身、自分なりにいい文章が書ければいいなとは思いますが、これは酷く難しい課題ですね。

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