凡人コンプレックス

これも「成功者」のひとつの症例なんだろうと思う。

天才コンプレックス - shi3zの日記

何をもって凡人とするかはさておき、ぼくのような人間こそが凡人の名に相応しい。それだけは間違いない。多くの天才と出逢い、共に働き、若くしてその舵取りを天職と得心したshi3zという人を、ただ凡人と呼ぶことはぼくにはできない。世の中には様々な才能の持ち主がいる。それは知能テストに現れる場合もあれば現れない場合もあろう。ただ、ぼくの周りには幼少時のIQが200近くもあったなんて非凡の人はひとりもいない。そして、今、世に知られた才能たちからもはるか遠い場所にいる。それは物理的な距離の話ではない。もっと本質的な距離の問題である。

本当の凡人は天才と出会う才にすら恵まれない。これはぼくの周囲の人たちを見くびっていうのではない。なぜなら、凡夫は天才を知覚できないからだ。そう、ぼくの凡たる才は天才を正しく評価できない。仕事においても事務処理能力やプロジェクト管理能力や発想を形にする能力や人を動かす能力について評価することはできる。けれども、そうした規範からはずれるような突出した才能を見い出す力はない。いい方を変えれば、他人に対する興味が通り一遍なのである。だから、ぼくの目には既に他人の評価を得た天才の姿しか映らない。これが真の凡人の姿である。

そして、本当の凡人は天才の苦悩を認めない。冒頭のリンク先にあるようなドラマは、成功者の過去を彩るステキな逸話であって悲劇ではない。凡人という生き物は、できることならトラウマのひとつくらい抱えて生きたかったと思っている。若干9歳にしてIQ200など、たとえそれが児童心理学的に「社会不適応」の徴だったとしても、凡人から見れば紛れもない天与の才であり、羨むべき非凡な過去である。ぼくの人生のどこを探したとて、語るに足るエピソードなど欠片も見付かりはしない。「それなりに幸せな生い立ち」ほど凡人にコンプレックスを抱かせるものはない。

そして、凡人の中の凡人たるぼくは、案の定、大海に乗り出すでもなく世の中に貢献するでもなく、日々を小さなデザイン会社のWebデザイナーとして過ごしている。毎日それなりに楽しく、Webという情報の海を傍から眺め、小さな出会いやら別れやらを繰り返し、人並みに恋愛などし、平々凡々たる日常を生きている。普段は世界にイノベーションを起し続ける天才たちのことなど忘れ、身の丈にあった幸せを何の疑いもなく享受している。それでも、時折、こうして非凡な人の吐露する非凡ゆえの言葉を見付けては、凡人たる自らの器の小ささを再認識させられるのである。

凡人コンプレックスはこのようにしてぼくの中に確かに存在している。

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comment - コメント

トラウマのないそれなりに幸せな人生…羨ましすぎる畜生!!
最高だと思うけどね

> のみのさん
まあ、もういい大人なので、普段は最高だと思うようにしていますが。
ほら、天才のうわ言をきいてしまうと、またふつふつと…。

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