他人の本の読み方にケチをつける人は共感されたいだけ

彼らは実は「共感されたいだけ」…という指摘自体は面白い。

36. 「共感できない本」を読めないあなたは、共感されたいだけ。:日経ビジネスオンライン

確かに、共感だけを基準にコンテンツのできを判断するのはもったいないかもしれない。けれども、「これは共感できないからツマラナイ本だ」という感想を目にして、「なるほど、あれはツマラナイ本なのか」と判断する人がいるのだとしたら、それはそう判断する方にも責任があろう。その書評が「比較的広範な文学的知識や比較的公平な主観に基づくもの」か「極めて狭い見識と極めて個人的な感情のみに立脚したもの」かを見分けるのも、また、受け取り手の問題だろうからだ。そして、どんな評をどう参考にしどう受け流すかも、すべては受け手の自由であり、裁量である。

もちろん、ある程度以上の影響力を持つ人が共感だけを理由にある作品をこき下ろし、しかも、それを巧妙に客観的かつ一般的評価たり得るよう粉飾して発表したというなら問題だろう。倫理的に看過し難い。それを見破るのも受け手の腕だということはできるけれど、そこまでのリテラシーを前提にすることは、どんな言論の場であれ健全とはいえない。ただ、個人的な共感に基づいて本を評すること自体は、その個別性を隠蔽し一般化したりしない限り、まったく悪いことだとは思わない。それはインターネットに溢れる口コミの面白さでもあろう。何も「恐ろし」くなんてない。

そもそも本に何を求めるかは個人の自由である。登山にでも挑むように晦渋な文章に挑むのも、ただ好みの文体に酔うのも、アクロバティックなストーリー展開に翻弄されるのも、ページを開きもせず枕にするのも、読めもしない洋書をインテリアにするのも、別に、本の愉しみ方として間違ってはいない。ただただ「共感」を求めるのだって立派な本の愉しみ方だろう。高度に文学的な読みだけが正しいわけではないし、優れているというものでもない。芸術的感動は絵画に求め、文学的感動は詩に求め、小説にはただ共感のみを求める。そんな人がいてもいい。善悪も優劣もない。

たとえば「共感」しか愉しみ方を知らない人に、「こんな愉しみ方もあるよ」といってもっと別な読書の面白さを教えてあげる。そういう試みはあってもいい。自分以外の誰かをより豊かな読書体験に導けるなら、本好きとしてこんなに嬉しいことはないだろう。けれども、あなたの読みは間違っているとか、お前の読みは浅いとか、ベストセラー小説しか読まないなんてカスだとかいって、他人の本の読み方にケチをつけるのはちょっと下品だと思う。その結果として出てくる個人的な感想を否定するのもやっぱり筋が違う。それはそれで共感とは別の何かに縛られているんだろう。

共感できない他人の読みを否定することと、共感できない本を否定することはよく似ている。

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