本を読む馬鹿、読まぬ馬鹿

いい加減いい古されたことだろうけれど、要するに、世界は情報の塊だ。

というより、情報としてしかぼくたちは世界を読み取ることができない。だから、世界は巨大な1冊の本である、というようなアナロジーが説得力を持つ。ただ、世界という情報はあまりにも緻密、且つ、無限であり、そのすべてを読み取ることは誰にもできない。それどころか、欲しい情報に的確にアクセスすることすら困難だ。一方、本というのは書き手が切り取り、解釈した世界の断片である。原本である世界に比して情報密度は限りなく低い。それは意識的な取捨選択の結果でもあり、読み取り能力の限界による欠落の結果でもあろう。これが書き手の主観である。

つまり、本を読むという行為は、世界という広大無辺の情報源から直接情報を読み取る代わりに、誰かの主観を通して限定的な情報にアクセスすることを意味する。それは、笑える情報が欲しいとき、Googleで一から検索したりせず、手っ取り早くまとめサイトを利用する感覚に近い。当然その情報はまとめた人の感性や収集能力に左右される。取りこぼしだって大いにあるだろう。その代わり、情報へのアクセス効率は飛躍的に高まる。情報を編集するという行為から主観を完全に取り除くことはできない。要するに、主観バイアスとアクセス効率はオレードオフの関係にある。

本など読まず、あらゆる情報を世界から直接読み取って生きる。経験至上主義の極北である。これなら他者の主観バイアスに左右されず生の情報に触れられる。また、アクセス効率や読み取り効率が悪い代わりに、そこに到るまでの経験がオプションでついてきたりもする。そこで所期の目的以上の成果を手にする可能性もあるだろう。ただし、この方法で得られる情報の量には限りがある。読書に比べてその限界値は相当に低いはずだ。また、自らの主観バイアスや誤謬を自覚しにくいという問題もある。自分の目だけを信じるのでは、本を鵜呑みにするのと変わりない。

もちろん、たくさん本を読めばいいという話ではない。特に、そこに答えが書いてあると思ってする読書は、長期的にはつまらないと思う。本に書いてある答えは極めて限定的なものでしかない。当然、限定的な知識の習得にも意味はある。それは思考するための有用な道具となる。ただ目的としては弱いと思うだけのことである。本を読むということは、他者視点の世界を垣間見るということだ。他者の視点をインストールすることで、自分自身をアップデートする。それこそが読書の醍醐味ではないかと思う。それはフィクションだろうが実用書だろうが変わりない。

人生を愉しむとは、いわば自分の変化を愉しむことではないかと思う。昨日と同じ今日がきて、明日も明後日も10年後も、さして変わらぬ日々と自分が延々引き伸ばされてただそこにある。そんな人生は考えるだに苦痛だ。世界という膨大な情報に目を凝らし、他者と互いに影響し合いながら、昨日とは違う自分を見付ける。今日とは違う10年後の自分を夢想する。もちろん、どんなに漫然と生きていても人は変わる。一歩ずつ死に近付きながら否応なく変質していく。けれども、自分は変わったと感じることは案外難しい。ただ老いたというだけで充実できる人は少ない。

そして、読書は自身をアップデートするためのとても有効な手段のひとつだと思う。

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