需要を生み出すクリエイティビティは否定されるべきか?

何によらず狂信は気持ちが悪い。大発見だとはまったく思わないけれど、共感はする。

大発見!Googleストビュー自体はキモくないが、その狂信者はキモい - 女教師ブログ

ただ、狂信者の熱に浮かされたような妄言がいくら気持ち悪くても、罵倒の材料はちゃんと選ぶべきじゃなかろうか。というわけで、上げ足をとってみる。まず、「近所の散策ぐらいなら単なる暇つぶしだ」云々という元エントリーを引用したあと、terracao氏は「エベレスト『探険』や、月面『旅行』だって、充分暇つぶしだろうが!!!」という突っ込みを入れている。個人的には共感できる。人は一生をかけて死ぬまでの暇をつぶすしかない生き物である。探検や旅行どころか仕事も恋愛も結婚生活も遍くすべての行為が暇つぶしである。暇つぶしとそれ以外を分けるのは個人の勝手である。

個人の勝手である以上、そこに明確な基準などない。「テレビを観るのは暇つぶしだけれど、映画を観に行くのは趣味だから暇つぶしではない」という価値観の人もいれば、「趣味なんてみんな暇つぶしだけれど、仕事や恋愛は暇つぶしではない」という価値観の人もいるだろう。どちらも非難するには当たらないし、別の価値観を押し付ける行為に正当性があるとも思えない。探検や旅行が暇つぶしではないという価値観を、そうでない価値観の持ち主が非難する。あまり趣味のいい話ではない。SMAPファンに向かって、「SMAP好きとか意味分かんない、キモすぎ」とかいっちゃうようなものだ。

そして、後段の需要と供給の話。この論旨もやっぱり受け容れ難い。たとえば、映像技術が存在しなかった時代、大衆は映画やテレビといった娯楽を欲していただろうか。おそらくは、想像すらできなかったんじゃないだろうか。インターネットがなかった時代、ケータイがなかった時代、一般大衆はインターネットやケータイを娯楽ツールとしてこれほどまでに欲していただろうか。テレビもネットもケータイも、需要があって生まれたわけではないと、ぼくは思う。そんな欲求を多くの人は想像もしなかっただろうからだ。つまり、新しい技術が予め存在しなかった需要を生み出したのである。

もちろん、テレビもネットもケータイもまったく自分には必要なかったという価値観を、ぼくは特に否定しようとは思わない。けれども、新たな需要を生み出す営為を「メリット」がないと切り捨てる態度に賛成はできない。誰も気付いていない「メリット」を提示してみせることに、ぼくは一定の価値を認めたい。それらは、ぼくの一生の暇つぶしを少しは楽しいものにしてくれるかもしれないからだ。だから、そうしたクリエイティビティをぼくは歓迎する。「メリット」が合理的なものばかりではつまらない。意味はないけれど、なんだかワクワクするという「メリット」だってあっていい。

ぼくは、自分でも気付いていないような欲求を満たしてくれる新技術の登場にワクワクする。

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