努力が報われるかどうかなんて社会とは何の関係もない

どうにも「努力」や「報酬」という言葉が硬直しすぎている。

「努力報われる」半数に満たず 格差拡大 大学生冷めた見方(産経新聞) - Yahoo!ニュース

彼ら冷めた見方の大学生たちには、ぜひ「あなたはどうなれば努力が報われたと感じるのですか?」と訊いてみたい。彼らとて少し考えれば、それが多分に多様性を含んだ質問だと気付くはずだ。思うに、そもそも質問の仕方がおかしいのである。たとえば「努力が報われる社会だと思いますか?」なんて訊き方はフェアではない。それはほとんど「一所懸命に働けば地位や富が十分に手に入る社会だと思いますか?」という意味しか持ち得ない。或いは、そう取られることを意図しているとしか思えない。それなら最初からハッキリそう訊くべきだろう。言葉遣いが恣意的にすぎる。

そんなふうに「努力」や「報酬」の定義を矮小化するから話がおかしくなるのである。趣味のサーフィンがうまくなる努力をしたとしよう。どうなればその努力は報われたといえるんだろう。うまくなることが報酬だろうか。それとも、一所懸命に努力することで過ごした充実した時間や経験そのものが報酬だろうか。或いは、うまくなって人に尊敬されたり異性にモテたりすることが報酬だろうか。はたまた、プロになってお金を稼げることが報酬だろうか。いうまでもない。どれもが報酬たり得る。もっと別の意味で報われたと感じる人もいるだろう。それを個人の価値観という。

本来、何を得るためにどんな努力をするかなど極めて個人的な問題でしかない。ただ、その中には「社会」からしか得られない報酬が一部含まれているというだけのことだ。先の例でいうなら「尊敬されたり異性にモテたりする」や「プロになってお金を稼げる」がそれにあたる。これらは社会的な価値と努力の結果が合致しなければ得られない報酬である。けれども、そればかりをありがたがって、それ以外の価値を見失ってしまうのは自ら不幸の淵を引き寄せるようなものである。幸福に対する感度の低さはエスカレートする。富や名声とて簡単に報酬としての価値を失うだろう。

幸福の種を誰かに与えてもらうことはできない。いくら褒められても、いくらモテてても、いくらお金をもらっても、そこに歓びを見出すのは自分自身でしかない。逆に、誰から何を得たと感じるかは自分次第だということもできる。或いは、誰にも何も与えられなくても歓びを見出すことはできるだろう。「努力」というのはそいうもののためにすべきだし、そうした有形無形の歓びのすべてが「報酬」であるべきだ。社会が不寛容で窮屈に思えるのは、不寛容で窮屈な社会の価値観を自分のものとして生きているからだろう。何もそんな硬直した価値観を自ら選び取る必要はない。

ぼくたちは「努力」の形も「報酬」のありようも自分で選ぶことができる。

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