よくいわれる「正しい努力」とは何か?

社会に出た途端、努力が報われなくなる。そんなことはない。

「努力すれば報われる」の罠

報酬とは何かについて真面目に考えないからこういうことになる。たとえば、リンク先の匿名氏にとって受験勉強の報酬は何だったのか。身に付いた学力が報酬だという人もいれば、手に入れた学歴が報酬だという人もいるだろう。或いは、課題解決能力や、興味のある分野の専門知識に触れる権利や、青春時代のモラトリアムが報酬だという人だっているかもしれない。いずれ、努力して報酬を得ようと思えば、報酬を得るための努力をしなければならない。これは循環論法ではない。そして、広い意味での報酬は「自ら生み出すもの」と「他者から与えられるもの」に分けられる。

受験の例でいうなら、「自ら生み出すもの」は学力や課題解決能力の類である。そして、「他者から与えられるもの」は合格通知である。リンク先の文面から推し量るに、匿名氏が求めている報酬は主として後者なんだろう。部活動の報酬は経験や体力や交友関係というよりは、競技成績やそれに付随する名声のようなものなんだろうし、恋愛の報酬はそれによって得た内面的な成長だとかいうものよりは、単純に好きな女をモノにした、彼女に認められたという体験なんだろうと思う。それは決して悪いことではないし、一般に自己満足だけで生きていくことはとても困難である。

学生時代に報われるためのハードルが低いのは、努力と報酬の関係が単純だからである。同時に、報酬を差し出す側にさしたるコストやリスクがないからでもある。大学が合格通知を出すことは顧客を確保することを意味する。一方、会社が採用通知を出すことは将来的な利益への先行投資を意味する。合格通知をもらうための努力と、採用通知をもらうための努力がまるで性質を異にすることは明白だろう。社会に出て報酬を得るということは、相手にコストを支払わせるということである。合格通知をもらうための努力ばかりしていても、採用通知がもらえないのは当たり前だ。

学生時代は「自ら生み出すもの」と「他者から与えられるもの」がおよそ一対一で対応している。「自分のため」に努力することがそのまま報酬に繋がっている。たとえば、学力を身に着けることが、そのまま合格通知に繋がっているように。学生は決して「大学のため」に受験勉強をするわけではない。いい換えれば、学生はまだ本当の意味で経済中心の社会で生きてはいない。むしろ、将来を支える人材への先行投資として、社会にコストを支払ってもらっている。社会に出て他者から報酬を得るためには、当然、その他者に報酬を差し出させるだけの何かを与えなきゃならない。

たとえば、プログラミング技術を磨くことは「自分のため」の努力である。社会はその努力に対して報酬を支払ってはくれない。その技術を使って社会に貢献したとき、初めて報酬が支払われる。会社が技術習得に協力的だとしたら、それは純粋に先行投資である。習得努力は前提であって、期待されているのは利益の還元である。だから、「努力さえさせてもらえない」とか「努力そのものを全否定される」というのは、相手にとって不要な努力を売りつけようとしているか、必要性を説明できていないかのどちらかである。社会に出ても、学生時代と同程度には、努力は報われる。

だから、「努力すれば報われる」と教えることは間違っていない。受験勉強の努力は、もう「合格通知」や「学歴」だけで報われている。「学歴」がさらに「社会で認められる」とか「将来安泰」とかいうような複利を生む…そんなものは勝手な思い込みである。学生時代の努力で複利を得るためには、複利を得るための努力が必要に決まっている。ただの「学歴」が複利を生んだ時代もあっただろう。けれども、今はそうじゃない。時代は変転する。今、「学歴は万能だ」なんて子供に教えるのは愚かでナンセンスだ。けれども、「努力は報われる」と教えるのはいつだって正しい。

したり顔で「努力しても無駄だ」とか「人生は徒労だ」とか教えるような大人は要らない。

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comment - コメント

ポジティブ納得。それとコメントできるブログはそれだけでも価値が高いってもんだ。

> Aさん
ポジティブ視点で書きました。タイトル通り「よくいわれる」を念頭に。なので、「努力しない」や「報われない努力をする」ことについてはまた別の視点があるでしょうね。

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