努力を「意識して」する必要なんてない

思うに、努力ほど主観と客観が一致しない概念もそうない。

努力厨がはびこれば2020年地球は滅びる。 - orangestarの日記

そもそも論を打つなら、努力の定義から始めろという話になるんだろう。が、厳密にできるような気もしないから、ここでは大雑把に「主観的努力=自ら意識して頑張る行為」を「客観的努力=他人に頑張っていると認められる行為」と区別する形で話を進める。それを踏まえて、リンク先の「努力」を見てみる。これは基本的に「主観的努力」の話だろう。数字に根拠があるとは思えないから、120%の努力というのは、「自分がしてきた精一杯よりもさらに上をいく頑張り」程度の意味だろう。数字は単にイメージでしかない。いわば、石の上にも三年の「三年」みたいなものだ。

なので、120%という「主観的努力」量を客観的な仕事量に置き換えて「10年後には35億人分の仕事ができる」なんてやらかすのは発想としては面白いけれど、くすりと笑えるネタ以上のものではない。むしろ問題は、この手の置き換えがそれなりに説得力を持ち得る点にある。努力の主観と客観の乖離を自明のことと捉えていれば、こんな錯誤は起こらない。ちゃんと主観だけで語るなら10年後に現状の35億倍すごい自分になることは可能だ。当然、他の誰かの35億倍とは比較できない。さらには、客観的な仕事量として観測可能とも限らない。主観的努力とはそのようなものである。

もちろん、こうした主観的努力の主観的な成果がたまたま客観的にも認められるということはあろう。けれども、それはあくまでも「たまたま」である。本来、主観的努力は主観的な成果、或いは、満足にしか奉仕しない。要するに、主観的努力というのはあくまでも自己満足のためにすべきものなのである。逆にいえば、苦しいばかりで幸福を得られないなら意識して努力なんてする必要はない。無意味である。最初から人に認められることが目的なら、主観を捨てて客観的に認められる努力を演出すればいい。それは、主観的にはまったく努力の名に値しない行為かもしれない。

好きなことを好きなようにやっていたら成功したなんていうのは、こうした主客のズレの幸運なコラボレーション事例である。好きなことが「たまたま」社会的価値を持ち、好きなようにやってきた仕事量が「たまたま」社会的価値を持つのに十分な量だった。それだけのことだ。目指してできることではない。目指した瞬間にそれは「客観的に認められるための努力」になる。それでもよければそうすればいい。運良く認められることだってあるだろう。ただし、好きなことを好きなようにはやれなくなる。この辺りのことは、好きなことを仕事にするジレンマとしてよく語られる。

人は一切何もせずに生きていくことはできない。たとえば、最新のゲームを大量にクリアし続けることは、ある人が見れば「娯楽」かもしれず、ある人が見れば「努力」かもしれない。同じことは、人生におけるあらゆる行為に当てはまる。毎朝6時に起きることも、1日3食ご飯を食べることも、週に3回セックスすることも、努力だといえば努力だろうし、そうじゃないといえばそうじゃない。生きるためのすべての行為は努力たり得る。その意味で、誰もが否応なく努力して生きている。それ以上の努力を強要されるいわれはないし、有意だという証拠も、必要だという根拠もない。

意識的にする努力なんて、人生を彩るためのオプションのひとつに過ぎない。

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