未婚率や離婚率の上昇は悲しむべきことか?

未婚や離婚が増えることを悲観する人がある。

ぼくにはそれがよく理解できない。ぼくたちの社会はあらゆる人間関係をパブリックとプライベートに分断し、プライベートから「感情」以外のものを不純物として排除してきた。もちろん、結婚も例外ではない。結婚というのは、元々社会が要請した非常にパブリックな制度である。それは感情のままに男女が交わったり別れたりすることを制限し、男女関係をシステムの下に縛り付ける役割を果たしてきた。けれども、先人たちはその「縛り」を是としなかった。「感情」の優先順位をあげるために社会の形を変え続けてきた。そして結婚は限りなくプライベートなものになった。

当然のことのように自由恋愛、恋愛結婚こそが男女がツガう最上の方法となった。感情を蔑ろにするシステムは糾弾され改善が叫ばれた。男女間の画一的な役割分担が男女関係の自由を奪うとなれば、雇用機会の平等化などの改善が試みられた。いまだ問題が山積している育児についても、両親の婚姻関係に縛られない社会的な平等が実現すれば、さらに結婚の意味は大きく後退するだろう。そして、制度的な強制力の最後の砦はおそらく「出産」ということになる。この性差が生む究極の不自由さえぼくたちは社会的に矯正しようとしている。少なくとも矯正すべきものと考えている。

こうやって結婚から感情以外の要素を剥ぎ取っていけば、未婚や離婚が増えるのは当たり前だ。気が向かなければ結婚などせずとも問題はないのだし、結婚に飽きたり厭になったりすれば離婚を躊躇う理由はない。文字通り「心のままに」行動できる。ただ純粋に感情だけでくっついたり別れたりすればいいのである。それは、目指してきた社会が実現しつつある証拠だろう。ぼくたちはますますシステムから自由になり、感情のままに生きられる。何ものにも強制されない。それは先人が勝ち取ってきた自由である。未婚率や離婚率の上昇が朗報だというのはそういう意味である。

ところで、絆というのはある種の縛りである。システム的な縛りは、おそらく「家」や「ムラ」といった共同体内の絆を育む役も果たしてきた。それはもしかすると「愛情」と呼べる何かだったかもしれない。思うに、絆、或いは、愛情と呼ばれるものは、何も100%内面から生み出されるわけではない。環境的な要因も小さくないはずだ。学校祭がクラスに絆を齎すことがあるように、結婚という制度が絆を育んでもおかしくはない。もちろん、旧弊な家父長制などは弊害も多かったに違いない。だからこそ多くの人がそうした旧弊なシステムと闘い、自由を勝ち取ってきたんだろう。

システム的な縛りが限りなくゼロに近付けば、後に残されるのは、たとえば倫理的な縛りや道徳的な縛りみたいなものだろう。その昔、男女の婚前交渉は不道徳だったし、不倫などは文字通り倫理に反していた。一方、自由や感情を尊ぶ心は道徳観や倫理観を変え続けてきた。これは善悪の問題ではない。今や、不倫への心理的障壁もずいぶんと低くなった。感情至上主義者にとっては、不倫の苦悩も愉しみのひとつだろう。いつか道徳や倫理からも開放されたとき、心の自由は頂点を極める。そのとき、絆や愛情は一切の強制力を失うだろう。何にも縛られないとはそういうことだ。

それはきっと結婚どころか恋愛すら成立しない真に自由で孤独な世界の始まりである。

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