乙武氏の愚痴と周囲で紛糾する議論・個人的まとめ

正直、事件そのものはただの喧嘩にしかみえない。

店主の態度が気に入らず客が憤慨する。全国津々浦々で日々起こっている、極めて普遍的な事件である。ぼくだって、なんだよあの店!と思ったことはなくもない。店主の方だって、なんだよあの客!と思うことはあるだろう。そんなとき客がネット好きだと少々面倒だ。きっと食べログに酷評レビューを書いて、TwitterやFacebookで愚痴るだろう。彼に好意的なフォロワーや友だちは件の店に悪い印象を持つだろうし、場合によっては一緒になって店の悪評を喧伝するかもしれない。ここまで含めてよくある話である。

今回の事件が「よくある話」ですまなかったのは、次の3つが絡んだせいだろう。

・ 乙武氏は著名人でそれなりの影響力を持っている
・ 乙武氏は身体障碍者である
・ 現代社会はいまだ非常にバリアフルである

これらを踏まえて、錯綜する論点を適当に概観してみる。

【 乙武氏に対する主な批判 】
1. 影響力のある著名人が店名を晒して一個人の店を糾弾した
2. 個人同士の諍いを差別問題のように表現してフォロワーを動員した
3. 和解と反省を口にしながらブログで重ねて怒りをぶちまけた
4. 十分に予想可能な困難に対して下調べや申告を怠った
5. 相手には配慮を求めながら、相手への配慮が感じられない

【 某店主に対する主な批判 】
6. やむなく断るにしても客に対する誠意や配慮が感じられない
7. 障害者を見下したような差別的な態度が許せない
8. 店がバリアフリーでないならその旨を周知徹底すべきだ
9. 障碍者に対してできる限りの対処をしなかったのは障碍者差別だ
10. 無条件に障碍者を受け入れられないような店自体が差別的だ

まあ、目についた批判を拾って乱暴にまとめただけなので取りこぼしは当然あるだろうし、色々と読みながら考えたぼく自身の解釈が混じっている可能性もある。あと、「お前が障碍者でも同じこと言えんの?」的な軽口や、「問題は乙武の不倫疑惑だ」みたいないまいち笑えない冗談、「これはコミュ強者 vs コミュ障の戦いだ」みたいなメタ批評、批判以前の皮肉や暴言みたいなものは無視している。ともあれ、1と10が戦ったり、6に4で突っかかっていったり、それぞれが持論を展開する相手を選ばないから紛糾してみえるんだろう。

以下は、個人的な所感。

最初の3つについては、ぼくは乙武氏を擁護することは難しいと思っている。1についていえば、フォロワーたちの暴言の数々は怖気をふるう醜悪さで、ほとんど乙武氏を後ろから撃ち殺しにいく勢いである。また、巨大チェーン店の経営方針に対する糾弾なら「あえてする」意義もあるだろうけれど、一個人店の店主の人格や「スタイル」に対して軍勢を駆って攻撃をしかけるなど、私憤を晴らす以外の意味があるとは思えない。あるいは、怒りを込めて、しかし、文筆家らしくキレイに表現された、ただの愚痴だったのだとしても、自らの影響力をまるで考慮しなかったのだとしたら、それは乙武氏の短慮だろう。

そして、今回の件でいちばん違和感を覚えたのが2だ。諍いの原因のひとつが彼の障碍にあることは確かだろう。けれども、いくら乙武氏に好意的な解釈をしても、店主側に「客に対する横柄な態度」以上の問題は読み取れなかった。断るにしても相手の気分を損ねない断り方はいくらでもあっただろう。そういう意味で、商売上手とはいえないかもしれない。ただ、その態度をもって彼が差別主義者であるかのような印象を誘導するのはフェアじゃない。意図的であるなら、私憤を晴らすために義憤を装った可能性すら考慮せざるを得ない。

そして3の燃料再投下である。これはもはや自分の首を締める類いの愚行だろう。ある程度公平なものの見方をしていた人たちも、「あれれ?これはどうも私憤くさいぞ」と気付かされたに違いない。当人は和解や反省を隠れ蓑にしてひっそりと怒りを織り込むつもりだったのかもしれない。が、完全に失敗している。さすがに誰が読んでも「本音がだだ漏れ」である。喜んだのは乙武ファンと、炎上祭を楽しむ観衆くらいのものだろう。身長150cmの同伴女性に関するゲスな憶測まで生んで、本当に何をしたかったのかと勝手に頭を抱えてしまった。

翻って、4、5、8、9、10には議論の余地がおおいにある。

まったくバリアフリーではない社会にあって、バリアに無頓着でいることは差別的な態度かもしれない。公道に車いすが通れない穴があったら、それを埋めるのは車いすに乗った本人の仕事ではない。同伴者の仕事でもなければ、偶然通りかかった誰かの仕事でもない。あるいは、車いすでどこかに行くとき、事前に「○月○日の○時頃に車いすが通りますよ!」と触れてまわる義務はないし、逆に穴のある道の前に店を構えたからといって「うちの店の前には車いすが通れない穴があります」と周知徹底してまわる義務が発生するわけでもない。

義務じゃないから何もしないというのは思考の放棄であり人間性の放棄である。それぞれがそれぞれの立場で考えて行動する。それこそ人間らしい態度だと思う。けれども、人間性にだけ頼っていては社会の不具合はなかなか改善されない。それなら、妥当なラインを模索していくしかない。とはいえ、何が妥当かを決めるのは難しい。特定の人たちに極端な負担を強いる社会はうまくない。けれども、誰がどれくらい負担すれば公平といえるのかは、極めて難しい問題だ。完全な平等があり得るという前提で現実の話をすることは、たぶんできない。

だから議論が必要なのだし、そのための問題提起であれば意味もあるだろう。発端が一著名人の盛大な愚痴でも構わない。流行にのっかってでも議論を起こすことが大事だというなら、個人の喧嘩に外野から罵詈雑言を浴びせるようなやり方は不毛なばかりか逆効果である。6や7については、そもそも議論の対象ですらない。真実は乙武氏と某店主の心の中だけにあり、そのふたつとて決して同じものではない。客観的事実なんてどこにもない。主観たっぷりに書かれた乙武氏の文章はそれなりに心を打つけれど、あれは乙武氏の物語にすぎない。

もちろん、某店主は事実差別主義者で、乙武氏を差別的にあしらったのかもしれない。そうだったのなら、確かに悲しい話だ。差別主義者に生きる価値なし、徹底的に叩き潰せ、という正義もあろう。ある一個人のカジュアルな差別に遭遇して、60万の軍勢を召喚することの是非について、ぼくは明確な答えを持たない。ただ、自らの影響力を利用した「私刑」としての社会的制裁には危惧を覚える。いずれ、某店主の対応が単に営業上の合理的判断によるものだったのか、著名人嫌いによるものだったのか、乙武氏個人に悪印象を抱いたせいなのか、障碍者差別のためだったのか、真実を公表された情報から判断することはできない。

某店主に浴びせられた批判の多くは、乙武氏の物語に共感した人たちによる人格批判か、そうでなければ、障碍者に優しくない社会全体やそうしたことに無頓着な大衆に向けるべき批判のように思う。その意味で店主にできることは少ない。彼は喧嘩の当事者ではあるけれど、差別問題やバリアフリー問題の個人的な当事者ではないからだ。結局、できる範囲での障碍者への配慮や業務改善を約束するくらいがせいぜいで、事実関係の説明や釈明などはほとんど無意味である。燃え盛る炎を前にしてじっと鎮火を待つ以外になすすべはない。

一方、著名人だって憤慨して盛大に愚痴ることくらいあるだろう。自己正当化だってして当然だ。乙武氏とて37年生きた程度のただの人である。清廉で賢明な障碍者代表のイメージなど負わされる謂れはない。が、正当化のロジックが酷すぎた。「僕のように、こんな悲しい、人間としての尊厳を傷つけられるような車いすユーザーが一人でも減るように」…この一文に潜ませた「車いすユーザーが」のひと言は、和解の封書に忍ばせた刃のようなものだ。これで血を流す人間は当事者のみにとどまらない。よほど頭に血がのぼっていたんだろう。

いわば、主語ならぬ「主題が大きい」問題といったところだろうか。

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