差別は自然な感情だからこそ

なくしたいなら教育や啓蒙によって差別心を矯正するしかない。

およそ素朴な差別心というのは「差異」に対する違和から発するんだろうと思う。侮蔑からくる差別も畏怖からくる差別も、ある域値を超えた「差異」からくるという点では変わらない。そして、その域値にはかなりの個人差がある。たとえば、限りなく域値が小さい人は、一般的な意味での差別は不可能である。何故なら、そもそもすべての人間に違和を感じるはずだからである。全員が差別対象ということになれば差別のしようがない。実は、この状態は域値が無限に大きいというのとほとんど同義である。そして、域値を大きくすることは、おそらく教育によって可能である。

域値をできる限り大きくしてやることで、否応なく差異を受け入れさせる。そう考えたとき、本来あるべき「みんな」の差異を必要以上に平板化したり隠蔽したりすることは、明らかに逆効果である。本当はまったく違うはずの「みんな」の差異を隠蔽しようとすればするほど、はみ出した「アイツ」の差異はマイノリティとして強調され、違和を生む。システムが一定の域値を作り出し、マイノリティを生み出すことになる。たとえば制服みたいなものもそうした差別装置として働く。服装という差異を埋めることで、何らかの理由で制服に適応できない人間を域値の外に放り出す。

ジェンダーやセクシュアリティについても似たような側面がある。実のところ、男女というのはそれほど明確な区別ではない。各個人が男と女という両極を持ったグラデーションのどこかに位置している。そういったものだと思う。しかも、そのグラデーションは、おそらくジェンダーとセクシュアリティそれぞれ別個に持っていたりもする。つまり、ジェンダー的にはかなり男性寄りな内面を持ちながら、セクシュアリティ的には限りなく中性に近い女性というようなキャラクターはあり得る。そして、まったく同程度に男な男性や、まったく同程度に女な女性というのはいない。

男女を単純に分ける社会のシステムによって、そうした精妙なるジェンダーやセクシュアリティの差異が隠蔽され、まるで2つに分かれているかのように扱われる。どちらかといえば外見の性別寄りのジェンダーやセクシュアリティの持ち主はいい。問題は、限りなくグラデーションの中間に位置する人たちや、外見の性別とは反対寄りの内面を持った人たちである。本来それほど奇異な差異ではない。グラデーション上でいえば、かなり近しいメンタリティを持った男性や女性だって少なくないはずだ。生物学的な意味を別にすれば性はふたつではない。人の数だけ存在するのである。

差別心を矯正するためには、すべての人間が無数のグラデーションの上に位置し、「みんな」などいないことを知るところから始めなければならない。誤った「平等主義」が、教育の現場で「みんな」という幻想を作り出し、不当な差別を生むとすればこんなバカバカしいことはない。本当の平等は「誰ひとりとして同じではない」ことが前提である。差別は良くないと教えるなら、「差異」の存在をできるだけ広範に認識させるべきだろう。そして、あらゆる分類や区別は、本来存在するはずの「差異」を便宜的に捨象した結果にすぎないことを、実感として叩き込むべきである。

ただ、こうした「便宜的」な運用が社会システム上否応なく要請されるシーンはあろう。分かりやすい例を挙げるなら、公衆トイレや風呂が男女に分かれているような場合である。こうしたものをすべて否定するのはあまり現実的ではないと思う。大切なのは、こうした区別が運用上最善の策として便宜的にされた区別であり、個人のジェンダーやセクシュアリティに介入するものではないという社会的コンセンサスを育むことである。たとえば、男性用トイレはジェンダーやセクシュアリティに関わらず「生物学的な男性」が使用するものという社会通念の元で運用するのである。

そうした社会通念上の基礎があれば、たとえばある進学校が「学習効率向上のために我が校ではあえて男女別授業及び男女別制服の着用をルールとして採用します」というようなケースも、認められていいように思う。実益上の理由による性区別を「明示的に選択」し、教育方針として採用する。このとき、男女別の制服は男女別授業を効率的に行うための目印以上の意味はなく、男女別の授業にも学習効率向上のための手段以上の意味はない。それらが特定のジェンダーやセクシュアリティを示す暗黙のシンボルなどではないという社会的コンセンサスがあれば可能なはずである。

こうした運用上の自由度を担保するためにも差別の矯正は有意義だと思う。


【追記】
ブックマークコメントで指摘を頂きました。便宜的な区別という際どい方法論をいいたいがために、「生物学的」な意味での性別を、線引きの手段として固定化可能であるかのように表現している箇所が、例示を含め4段落目、5段落目にありますが、これは完全なぼくの不注意です。実際には、これも「グラデーション」を持つ要素であり、それをまるで区別可能であるかのような認識を持つこと自体がすでに差別構造に加担しているというのは指摘の通りだと思います。構造的な差別については、コメント中に挙げられているURLを以下に転載させて頂きます。
2009-03-12 - hituziのブログじゃがー
macska dot org » Blog Archive » 差別についての、ごく基本的な考え


【インスパイアされたページ】
不当なルールを守る義理はないので「ルールなんだから当然」は全然当然じゃないだろう、当然。 - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃない
茶髪の何がいけないのでしょうか/意味のない校内ローカルルールには断固として反対する - 教えてお星様

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差別と言えば…と、例によって本文の感想や賛辞じゃなくて私の勝手なオシャベリなんですけど、
「被差別部落の青春」(講談社文庫) っていう本を最近たまたま読んだんですけど面白いですよ。

差別と貧困と戦い抜いた苛烈な青春の記!…かと思ったら全然そういうのではなく、
「おもろい奴も、笑える話もあるで」という編集がつけた惹句も、かなり(すごく)不適切。
「ふつうの人」は殆ど誰もブラク差別なんてしなくなった「現代の部落差別問題」の、冷静な現場ルポです。
差別について考えるならこれを読んでないと!…というわけでないけど、いい仕事してるので、よかったらどうぞ。

差別と青春とセックス/ジェンダーといえば…と、ますます直接本文には関係ないんですが、
井田真木子「もうひとつの青春 同性愛者たち」は必読ですよ(!)
これ読んで勉強しなさいというのではなく面白いから必読なんですけども。もしかしたら当ブログのコメント欄でおなじこと書いたことあるかも…覚えてないけど、

井田真木子知ってますか? 私はわりあい最近まで知りませんでした。
急逝されてのち殆どの著書が絶版、図書館でも書庫入りばかりで、
今その名を知る人にとっては変に思い入れされており(見た目やキャラがカワイイ、レイプされたのをサラっと告白してたり、マイノリティの「味方」であったり…猪鹿蝶)
「被差別部落の青春」同様に、その面白さがわかりそうな読書人に食わず嫌いされそうな要素が妙に揃っているのであえてここに猛プッシュします。

> nbさん
本のオススメありがとうございます。ひとまず、角岡伸彦『被差別部落の青春』(講談社文庫)は注文しておきました。部落差別問題は案外身近にもあったりするので心して読もうと思います。で、猛プッシュの井田真木子『もうひとつの青春 同性愛者たち』ですが、Amazonで見てもマーケットプレイスしかないんですよね。まいったなぁ。実は、ネットバンキングしか使わないようにしてるもので…。折角ですから、Amazon以外の古書店でネットバンキング使えるとこでも探してみます。

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