自己決定と自己責任の圧倒的な非対称性

時折、「自己責任論」をフェアなものとして捉えているらしい人を見かける。

そういう人の多くは「自己決定」による結果への影響を高く見積もりすぎているのだろう。或いは、根拠のない「全能感」の表れといってもいい。この種の全能感は人生のすべての瞬間が「自己決定」に委ねられている、という世界観を前提とする。そうした自我の世界では、いま手にしている「利」のすべては自分の手柄であり、被った「害」のすべては自分の責任である。これは一見、とても能動的な世界観に見える。が、実は逆である。何故なら、それは「自己決定」不可能な条件を「すべて所与のものとして無批判に受け入れる」ことでしか成り立たない世界観だからである。

「自己決定」という入力が「ブラックボックス」を通り、ひとつの「結果」として出力される。「自己責任論」の瑕疵のひとつは、この「自己決定」権の強制と不自由を、まるでないもののように扱う点だろう。実のところ、「自己決定」にかかる自由意思というのは極めて小さな権利しか与えられていない。そもそも「選ばない」という意思すら自己責任の名の下に「自己決定」したことになるのである。当然ながら、選ぼうにも選べない選択肢は膨大すぎるほどに存在する。酷い場合は「どれを選んでも不利益にしかならない」なんてこともある。それも、思いのほか頻繁にある。

さらに、生まれ落ちたその瞬間から与えられる「所与の条件」には、とても無視できない有意な個体差が存在する。それは「選択肢」に個人差を生むだけでなく、「ブラックボックス」の性質にも大きな影響を与える。つまり、たとえまったく同じ「自己決定」を入力したとしても、「ブラックボックス」の特性いかんによってまるで違った「結果」が出力されるのである。しかも、そうして得られた「結果」が、次の「選択肢」や「ブラックボックス」にフィードバックされ続ける。そして、初期段階の小さな入力差が、良くも悪くも、ほとんど予測不可能な差異に成長してしまう。

要するに、「自己決定」とその「結果」はまったく自明な理路で繋がってなどいない。責任を負わされるほどに成長した人間が抱える「ブラックボックス」は、ほどんど解明不可能なほどに複雑化してしまっている。つまり、「自己決定」した内容などより、その「ブラックボックス」による加工の方が「結果」に対してよほど大きな影響力を持っている。いい換えれば、もっとも素朴な「自己責任論」というのは、「いまの時代にいまの両親から生まれた」というどうにもならない事実にまで遡って、すべての環境要件と過去のすべての行動について責任を負うことを意味している。

果たして、そんなものがフェアといえるだろうか?

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