自己責任という名の利己的な楽観主義

自己責任ほど肥大した自己を感じる言葉はない。

自分が被った不利益の責任は自分にある。何という思い上がりだろう。人はそんなことがいえるほどに全能ではない。無力である。自分が被った不利益の“一因”は自分に“も”ある。いえても、せいぜいその程度だ。そして、「原因」は「責任」とイクォールで括れるようなものではない。自己責任なんていう人は、自分が失敗さえしなければ不利益を被ることはないとでも思っているのだろう。心配は要らない。不幸はちゃんと理不尽にやってくる。要するに、あなたがまだレイプされていないのは単に運が良かったからにすぎない。別にあなたがしっかりしているお陰じゃない。

もちろん、「原因」を減らす努力はした方がいい。不幸な事件から教訓を読み取ることも有用だろう。それは自己責任論とは別の話である。何故なら、あらゆる不幸を想定してその原因を取り除くことはできないからだ。逆にいえば、どんな不幸も原因の一端は自分の行動にある。そういう意味で、ぼくたちは日々危険を冒して生きている。それでも不利益の種を除かなかった責任は問われるべきだと考えるなら、それは自由である。強盗殺人にでも遭った日には、自業自得だったと得心して死ねるかもしれない。ただし、それは個人の思想信条として心にしまっておくべきである。

けれども、軽々に自己責任を叫ぶ人たちが、そこまで自覚的にその言葉を使っているとは思えない。酷い場合は「他人の不幸は自己責任」と「自分の不幸は他人のせい」が同居していたりする。また、自己責任論は原因の単純化であり、自己正当化の具にもなり得る。たとえば、派手なギャル系ファッションを憎々しく思っている人が「レイプされたのは露出度の高い服のせい」と考え、「だから派手な服が嫌いな自分は正解」と歪んだ結論を導いたりする。或いは、そう考えることで「自分には無関係なこと」にしてしまう。根拠のない問題の単純化は自分にとっても不利益である。

こんな風に因果を単純化し個人の責任に帰する考え方は不利益だけでなく利益にも有効だ。「自分の不利益は自分のせい」の裏返しは「自分の利益は自分のお陰」である。アイツが不幸なのは自業自得。オレが幸せなのは自分の実力。実におめでたい。ひとつの不幸の原因が多岐に亘るように、ひとつの幸福の原因だってひとつではない。自分の手柄を独力で為したと考えるなどとんだ思い上がりである。およそ人は、世の中どころか自分の人生についてすら微力を持って立ち向かうしかない。自分の意思が世界に与える影響など微々たるものである。自己責任などとはおこがましい。

あえて書いておく。世界は自分を中心に回っているわけではない。


【インスパイアされたエントリー】
運が悪いことの責任はとれません。 - E.L.H. Electric Lover Hinagiku
自己責任という呪術 - 地下生活者の手遊び

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