【 取扱注意 】 「上から目線」の正しい使い方

流行言葉なんだろうか。「上から目線」という言葉をよく見かける。

相手を見下して偉そうなことをいう。或いは、自分もいわれる側のひとりだということを忘れて大上段からものをいう。使われ方に多少の差異はあれ、つまりは自分を言及対象から切り離し、メタな視点から俯瞰して語ることを指して「上から目線」というのだろう。あからさまにこれをやられると確かに萎える。ただ、岡目八目なんて言葉もあるくらいだ。他人事というのはよく見えるものでもある。その意味で、必ずしも否定されるべきものでもない。とはいえ、求められもしないのに的確に俯瞰してみせたところで、自ら得意になって相手の気分を害するだけということは多い。

それでも、「上から目線」には使い道がある。それも極めて有効な。眺める相手を「自分」に限定するのである。お得意の「上から目線」で自分という難儀な論敵を切って切って切りまくる。遠慮は要らない。怒り心頭に発して誰かを責め苛み暴言罵言の限りを尽くしたとき。自分は社会によって不当に扱われているんだと不満で心が一杯になったとき。誰かのせいで何もかもうまくいかないんだと自暴自棄になったとき。恋人ができて有頂天になって、さんざんイチャついて家に帰ってきたとき。何をやらせてもダメな奴に思う存分説教してやったとき。そんなときこそ出番である。

一見正当なその怒りが、視点を変えればいかに正当性を欠き、自分がいかに不当な差別意識に根差した暴言で相手を貶めたのか。そもそも怒りを感じること自体、どれほど自分の認識の甘さや思慮の浅さを露呈しているか。社会における自分の位置付けは本当に不当なのか。相対的にみて自分に大した社会的価値がないというだけのことではないのか。自分を見る時と他人を見る時で価値を測る物差しが変わってはいないか。そもそも有効な物差しなど自分は持ち得るのか。他人を見て、うまくいかないのは「自己責任」だと思ったことはないか。それは自分には当てはまらないのか。

或いは、恋人と別れ際、改札の向こうとこちらでキスを交わした自分たちは美しかっただろうか。ファーストフード店で撒き散らした喜びに上ずり必要以上に大きくなった話声は過去の自分を不快にはしないか。ふたりで歩く街路に、いかにも冴えないオタク野郎を見付けて優越感を覚えはしなかったか。その優越感を上から眺めて平気でいられるのか。自分を得意げな説教に向かわせるものも、それに似た不当な優越意識ではないのか。自分の説教はただ自分が気持好くなるためだけに行われたのではないと果たしていい切れるのか。…そんなふうに不用意な自分をやり込めていく。

すると、自分というなんだかよくわからないものがどんどん後景に引いていく。平静と虚無のあわいに自分を連れていく。やりすぎると離人感に囚われかねないけれど、そもそも自分が見えないことの方が大方なのだから気にすることはない。遠慮なく「上から目線」を自分に向ければいい。見えていなかった自分や見たくなかった自分、俄かに信じがたいような自分の姿が見えてくるかもしれない。これが「上から目線」の恐ろしくも正しい使い方である。待て。このエントリー自体が「上から目線」の濫用を「上から目線」で眺めた、正しくない「上から目線」の典型じゃないか。

そういう批判は甘んじて受けることにする。

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