「自然」という実態のない権威主義と欺瞞、或いは、信仰

「自然」という言葉を金科玉条のごとくに振りかざす。

そういう言論に出くわすと、ああまたか、とゲンナリする。それはたとえば、高度な医療行為に対する違和として、高度な科学技術への嫌悪として、生き難い現代社会への反発として、都合良く解釈され利用される。実際にはどれも「程度」と「好み」の問題にすぎない。そもそも自然と人工は対立概念ですらないとぼくは思っている。人間という生物もその営為も、すべてが自然の中に含まれている。それは勝負にならないレベルの包含関係である。鳥が巣を作り猿が社会を作るように、人間はロケットを作り街を作り国を作る。人間だけが特別だなどとはとんだ思い上がりだろう。

だいたい、薬物治療や臓器移植が不自然だというなら絆創膏を貼るのだって不自然なのである。風邪薬も氷嚢も体温計もみんな不自然だ。養生するのにベッドに寝るのも温かい服を着るのも不自然といえば不自然である。或いは、脳科学の知見を我田引水した教育が不自然なら、教育心理学に基づく教育も、先人たちの生活の知恵に基づく躾も不自然だ。躾も一種の世間知には違いない。いずれ人工的な「知のインストール行為」自体が不自然というべきである。脳に直接端子を突っ込んでそれをインストールすることと、親が懇々といって聞かせることとの間に決定的な断絶はない。

こんなことを書くと、それは極端だという人がでてくる。その通りである。もちろん、わざとやっている。これらが「程度」の問題であることをハッキリさせるためである。そして、「程度」の問題に明確な答えはない。輸血は許せてクローン臓器は許せない。それは決して輸血が「自然」でクローン臓器が「不自然」だからではない。輸血だって「不自然」だからダメだという人もいて当然だろうし、クローン臓器とて「自然」のうちだと考える人がいてもおかしくはない。それは倫理や価値観や感性の問題であって論理の問題ではない。線引きは恣意的なものにならざるを得ない。

かくの如く彼らの振りかざす「自然」に実体はない。おそらく、その定義について真剣に考えたことさえないんだろう。あれば、それが伝家の宝刀たり得ないことなどすぐに解るはずだ。彼らはただ「自分が自然に無理なく受け入れられるもの」を「自然」と呼んでいるにすぎない。ただの個人的な感覚を「自然」という言葉で権威付けし、自らの正当性を主張しているのである。当然そんなものに正当性は認められない。意図してやっているなら欺瞞以外の何ものでもないし、無意識にやっているならそれはほとんど信仰に近い何かである。人に押し付けられるようなものではない。

いずれ、無思慮に振りかざされる「自然」ほど空疎な権威はない。


【インスパイアされたページ】
幼児にしてはならない教育 - 虹色教室通信
#これに対するカウンターとして書いたわけではないけれど、考える切っ掛けになった。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/624

comment - コメント

「自然」信仰はわりと容易に一刀両断できますが「昔ながらの」はなかなか難物ですよね。
自分自身、相当に「昔ながらの」に依りかかろうとしているわけです。
しかしそういうものを声高に賛美する「同胞」には、ほぼ必ずイライラっとくるわけです。
まあこういう勉強熱心なおかーさんがたとか、うっかり触れるにはおっかなすぎるんで、そのへんのことを議論によって考えるということはしないのですが。

> n.bさん
「昔ながらの」というのは、高効率とは限らないし最善とも限らないけれど運用実績だけは大量にあって、しかも風雪に耐えるだけの柔軟性ももった規範である可能性が高いですよね。それはある一面から科学の光を当てると「間違った」ものに見えるかもしれない。ただ、科学が当てる光はあくまで一面でしかないという意味で、まったく正しい評価というわけでもないでしょう。逆にいえば、長く運用されてきた方法ほど絶対的に間違っていると証明することは難しい。…とまあ、その辺りを判断の前提にしつつ、「敢えて」選ぶ「昔ながらの」であればまったく問題はないし、そういった自分の選択基準をアピールすることも強ち無駄ではないかな、とは思いますね。

今のところ自分がひとの親になる予定が無いので具体的な話はしにくいのですが…

概ね、「敢えて」することならば…ある判断が恣意的なものであるという自覚のもとに、主体的に行うことは、ひとまず認めようというのが私の基本的な考え方でもあります。
しかし、こと教育・子育て、あるいはジェンダー云々といったことにおいては、そうも言ってられまいという局面が多々起こり得ますね。

「君の善しとするところのそれははたして本当にトラディショナルなものか? 本来の伝統が途絶えた空白にわいたオバケなんじゃないのか…」
と、いうふうに言ってみたくなる例はよくある。
しかしそれでは泥沼の考証合戦、本家争いということにしかならない。
「君はそれを敢えてするという自覚があるのか?」と問えば、「無論このような時代に敢えて古風を貫くのだ」みたいな元気一杯の答えが。

例えばの話ですが、自分の子供をボッコボコに「躾ける」、自称「厳格な」親を諌める言葉というのはなかなか出てこない。
殴ったらトラウマになって脳の成長がどうこうみたいな今出来のナニを持ち出すわけにも、まさかいきませんし。
「全ては信仰なのさ」なんていう思考停止の価値相対主義にも陥りたくはない。

「自然に逆らわない昔ながらの育児をすれば賢く育つよ!これは最新の脳研究に裏付けられている」というそのリンク先の主張、いかにも危なっかしいものを孕んでいるけれど、もしそう指摘してみたところで手も足も出ずヤッツケられちゃうんだろうなぁ、と思うわけです。
勿論参照先の例は座視しかねる危険な実例というものではないし、lylycoさんは無自覚な自然(という語の)信仰ということについて述べる材料として取り上げたということは承知ですが。

> n.bさん
こと教育という話になると、どうにも「○○すべき」とか「○○すべきではない」という主張が割りと前面に出やすいような印象はありますね。わたしは我が子をこう育てたい、ではなく。そういった、何やら「正しい教育」みたいなものでも存在するかのような言説をみると、個人的には危なっかしいなあという気持ちがムクムクと湧いてきたりします。行動主体としての個人が気取る類の価値相対主義的態度を今のぼくは好みませんが、社会そのものは価値相対主義的であって欲しいとも思います。であれば、ボッコボコに躾けるような親を諫めるという行為は、社会正義その他、自分の外にある「大儀」なんかはまったく無関係で、その親の価値観と自分の価値観をサシで闘わせることを意味するのだと思います。もっといえば、その自覚と覚悟がある人にだけ許される行為なんじゃないかとも思います。そして、良い大人が価値観同士の闘いを挑む以上、解らせるのが困難なのは当然でしょうね。

なるほど、「表現の自由」とかの話にも一貫したお考えであるように思います。

コメントを投稿

エントリー検索