他人を冷静に嫌うことの意味とその効用

まず、他者というのは基本的にストレスフルな存在である。

もっといえば、自分自身も含めて「思い通りにならない物事」のすべてがストレスたり得る。生きること即ちストレスとの闘いなのである。中でも最も避け難く大量に存在し、思い通りにならない存在。その代表が他人だろう。あの人はあそこが厭だ。その人のそこが気に入らない。他人とある程度以上の関わりを持てば必ずそんな不満が出てくる。しかも、他人が齎すストレスは十人十色の上、玉虫色である。どんなに優れた経験則をもってしても避けられるものではない。避ける方法は唯一、断絶しかない。つまり、この世からの退場である。もちろんこれは最後の手段だろう。

人を嫌うにもいくつかのレイヤーがある。その内もっとも酷いものは、ほとんど差別に近い。それは「ある性質をもって他人を類型化し、その全体を嫌う」というレイヤーである。具体的には、朝鮮人を嫌ったり、同性愛者を嫌ったり、大人を嫌ったり、最近の若者を嫌ったり、男を嫌ったり、女を嫌ったりすることを指している。差別に「近い」というのは、それが感情のものでしかない間は、という条件が付いての話だ。ある種の権力やシステムと結びついて現実に影響を及ぼすようなら、それは差別といっていいと思う。そしてこれは、もっとも冷静さを欠いた嫌い方である。

もう少しマシなのが「ある性質に触れて、その個人を嫌う」というレイヤーである。一般に「人を嫌いになる」といえばこれだろう。個人というのは無限の性質の組み合わせで成り立っている。そのすべてを識ることはできない。にもかかわらず、ある性質だけを取り上げてその人の全人格を否定するというのはいかにも乱暴な話である。たまたま触れた気に入らない性質に対する過剰反応であり、やはり冷静さを欠いているというよりない。一時の感情に流されるということは、多かれ少なかれ誰にでもあることだろう。けれども、その評価を固定してしまうのは知性の怠慢である。

そして、もっとも正しい嫌い方がこれだ。「ある個人のある性質を嫌う」というレイヤーである。ここでいう性質は必ずしも独立したものではない。「アイツはすぐに抱きついてくるところが厭だ」の裏には(ブサメンなのに)という性質が紐付いているかもしれない。同じ性質でも「アイツは(一見お高くとまってそうな美少女なのに)すぐに抱きついてくるところが可愛い」となることはある。往々にしてある。人間とはそんなものである。そういう心自体を否定してみても仕方がない。ただ、そうした自らの理不尽な心には自覚的であるべきだろう。冷静とはそういうことだ。

これは他人を、また、自らの心をよく識ることに繋がる。そして、ストレスを必要以上に増大させる愚を避けることにもなるだろう。冷静さを欠いた嫌い方は他者からのストレスを実際以上に強く感じさせ、ことによっては新たな軋轢を生む。差別意識に塗れた人生が愉しいはずはないし、全人格を賭して人と嫌い合うなど不毛以外の何ものでもない。それでなくともストレスフルな世界を自らより生き難くしているようなものである。他者は遍くストレスを連れてくる存在だけれど、決して「それだけ」の存在でもない。ストレスを巧く御することで手に入る豊かさもあるはずだ。

人を呪わば穴ふたつ。何も進んで墓穴を掘ることはない。


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