意味と無意味の間で心安らかに生きるため振り子を揺らす

ぼくたちがやることのすべては無意味だ。

だから、すべては本当に厭ならやらなくて構わない。玄関先で蹲ってしまうほど苦痛な職場に行く必要はない。考えるだけで吐き気を催すような学校に行く必要はない。家族を憎んでまで一緒に暮らす必要はない。自分を苦しめてまで世間の価値観に合わせる必要はない。何故なら、働いてお金を稼ぐことにも、学校で勉強することにも、家族と暮らすことにも、世間の価値を受け入れることにも、さしたる意味はないからだ。自分ひとり野垂れ死んだところでどうということはない。体が腐って死んでしまうまで何もせずに寝ていたいならそうすればいい。それにだって意味はない。

食い詰めてなお生きたいなら誰かに助けを求めればいい。運が良ければ助けてもらえる。ダメなら死んでしまう。大したことじゃない。運が悪ければ誰だって死ぬ。貧乏も金持ちも美醜も賢愚も関係なく死んでしまう。それだけのことだ。死も不幸も同じだ。運が悪ければ誰だって不幸になる。貧困が人を不幸にする。愛が人を不幸にする。鬱が人を不幸にする。妬みが人を不幸にする。憎しみが人を不幸にする。病が人を不幸にする。不幸の確率を下げる確実な方法なんてない。だから、未来の不幸を避けるために今頑張ることに意味はない。ダメなときは何をしてもダメなのだ。

ぼくたちがやることのすべてには意味がある。

だから、やって無駄なことなんてひとつもない。いつか、すべてが生きる糧になっている。マンガが読みたいなら読めばいい。たくさんの知識が欲しいなら勉強すればいい。起業したいならすればいい。誰彼なくセックスがしたいならすればいい。引き籠って趣味に耽ることにも、知識に溺れることにも、お金を稼ぐことにも、異性にモテることにも、意味がある。すべてが人生の彩りであり生きる意味となる。本当はしたくないことだって、自分がすべきと思うならすればいい。他人に阿っても世間に迎合しても構わない。そうする人生にも、そうしない人生にも意味はあるからだ。

ただし、その意味は自分だけのものだ。よりハッキリいえば、すべての意味は自分だけのものだ。他の誰かと部分的に重なる可能性はある。ただし、重ねようと思ってできるものではない。重なるかどうかは、やっぱり、運だ。無理に重ねることはできないけれど、重なっているかどうか確認する努力や重なる余地があるかどうか試す努力は、たぶん無駄じゃない。そして、少しの意味を誰かと共有できることもまた、人生の彩りになるかもしれない。もちろん、別の彩りを求めるのでも構わない。何をしてもしなくても、それは自分の人生を彩り自分だけの意味となる。無駄はない。

意味に疲れたならその無意味を、無意味に疲れたならその意味を、ただ自らに説く。

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