一貫性のない人間でスミマセン

人として軸がぶれている

…とは、大槻ケンヂの歌である。そして、ぼくのことでもある。別に卑下していうのではない。ただ、理屈っぽいといわれる一方で一貫性がないともいわれる、そんな自分をその通りだと思っているにすぎない。じゃあ、感情的で非論理的な人間かといえばそうでもない。むしろ、理の通じない人は苦手だ。たとえば、個別的な議論では極力、論理的一貫性を重んじる。その程度には論理的だし一貫性もあるつもりだ。ただし、それはあくまで「個別的な議論」の話である。いい換えれば、複数の議論におけるぼくの発言を横断的に比較するとき、主張の一貫性はあまり期待できない。

一貫性に譲歩はない。たとえば友人の罪を許すか許さないかを決めるのも自らの論理的一貫性であるべきだ。ぼくにはこれができない。ネットでたまたま見かけた心無い発言には、その罪を糾弾し「許せない理由」を書き立てる。一方で、友人の口からでた心無い発言には、その罪を自覚させ「許すための説得」を試みる。つまり、そのとき相手を許したいかどうかでぼくの態度はまったく変わってしまう。言葉を発する目的が違うのだから当然だ。前者は糾弾そのものが目的であり、後者は糾弾の先にあるコミュニケーションが目的である。ぼくはこうして一貫性を簡単に放棄する。

これは、要するに優先順位の問題である。ぼくにとって一貫性の優先順位はそう高くない。前段の例でいえば「相手に対する気持ち」と「一貫性」なら「相手に対する気持ち」の方を優先させる。もちろん判断基準はそれだけではないし、そのときの自分にとって最も重要なテーマが何かによっても優先順位は変わる。場合によっては「気持ち」より「一貫性」を重視する場合もあろう。かように、一貫性の取り扱いについてもまるで一貫性がないという点で、ぼくはとても一貫性があるのかもしれない。いずれ「一貫性」は行動を決定するための数ある判断基準のひとつにすぎない。

もちろん、一貫性こそ最優先という人だっていよう。そういう人はきっと「一貫性のある主張」や「一貫性のある自分」が好きなんだろう。或いは、美意識といい換えてもいい。より深刻な人は「一貫性のない主張」が受け入れられなかったり、「一貫性のない自分」が許せなかったりする。ネットで匿名の誰かを糾弾したなら、相手が友人でもその態度を変えるべきではないと思い込む。ずいぶんと不自由な話だ。本来、一貫性をはじめとする「行動の規範」みたいなものは、先人の知恵と自らの経験が生み出したそれなりにカタイ処世術である。方法ではあっても目的ではない。

ならば、とるべき行動の方が「一貫性を守るために」縛られるなどは本末転倒だろう。

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