「なりたい自分」とあなたの価値

「目標を持って生きよ」

この手の言葉には言外の圧力がある。補うなら「(立派な)目標を持って生きよ」…そんな圧力である。なりたい自分なんかあるものか。そういう人は、たぶん、(立派な)を勝手に補っている。本当は、目標はある。きっとある。ただ、分不相応な夢物語だと思ったり、社会的価値がなかったり、漠然としすぎて具体性がなかったりする。だから、「なりたい自分なんてあるものか」ということになる。ならば、(立派な)を補完しなければいいのである。「なりたい自分」はある。もっとも漠然としたそれは「幸せな自分」である。定義はしない。自分にとっての「幸せ」でいい。

「なりたい自分」はあるとき具体的な像を結ぶかもしれないし、そうはならないかもしれない。ときとともに変化もするだろう。だから、終わりはない。そして、「社会的に価値ある自分」だけが「なりたい自分」だとは限らないし、そうである必要もない。運悪く反社会的な自分が「なりたい自分」だったりする人もいるかもしれない。そのときは社会的に排除されることもあり得る。これは本当に運が悪い。逆に、「なりたい自分」が世界人類に称揚されるべき大事業家なんて人もいるだろう。けれども、社会が決める「あなたの価値」は、あなたの幸福と必ずしもリンクしない。

所詮、人は自分の幸せのためにしか生きられない。他人のために生きることが喜びだという人も、「他人のために生きているという実感」がなければ喜べないはずだ。「他人のために生きているという実感」を得ることと「他人のために生きること」はイクォールではない。それがいけないといっているのではない。堂々と「他人のために生きているという実感」を得るために生きればいい。というより、それしかできないとぼくは思っている。そうすることで本当に「他人のために」なることだってあろう。いずれ「自分にとっての幸せ」を自覚することから始める。それが肝要だ。

「自分にとっての幸せ」を自覚すれば「なりたい自分」がないなんてことにはならない。おそろしく漠然とした幸せでもいいし、他人から見ればくだらない幸せでもいい。陳腐でも強欲でもいい。現状維持こそ幸せというならそれでもいい。その幸せを手にしている自分こそが「なりたい自分」である。(社会的な意味では)不幸すぎて痛々しい自分こそが「なりたい自分」だということだってあり得るだろう。別に奇異なことではない。客観的な不幸こそが主観的には幸せだというだけのことである。波瀾万丈でドラマティックな人生を望む人は少なくない。それには不幸が必要だ。

「なりたい自分」を自覚したら、あとは行動するのみである。今の自分が「なりたい自分」でないなら、そうなるための一歩目を考える。愛すべき運命の人に出会いたいなら、休日を寝て過ごすのをやめる。とりあえず職に就きたいなら、仕事が見付かるまではてなも2ちゃんねるもやめる。楽しく働きたいなら、今の職場で自分が楽しくない原因を考える。他人に期待はしない。あなたがあなたのためにしか生きられないように、他の誰かも自分のためにしか生きられない。だから、自分で考えるしかない。人に何かをして欲しいなら、その人を動かす方法を自分で考えればいい。

そうすれば、誰もが「なりたい自分」になるために、今すぐ動き出せるんじゃないだろうか。

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