その「すごい物」を生み出したのは本当に「才能」か?

とりあえず「すごい物」を「自分には実現できない物」と定義してみる。

すごい物を見てもへこたれない人

それなら、リンク先の匿名氏のいい分は尤もだ。頑張って頑張って頑張って頑張って100メートルを11秒フラットで走れるようになった。どう考えてもこれ以上秒単位で記録を更新できる気がしない。ある日、友人がやってきていう。100メートルを6秒台で走る化け物がこの町に3人も現れた。我々の時代は終わったよ、と。もうモチベーションがあがる余地なんてない。けれども、普段生きていて見聞きする他人の凄さは、実情の分からない凄さであることも少なくない。ぼくは小学生の頃、スクリーントーンを知らなかった。必死に手描きで模写しながら漫画家は凄いと感嘆していた。

技術や道具が多様になり複雑になると、ますますその傾向は大きくなる。たとえば、プログラマーでない人に凄いプログラムを判別することはなかなかできない。逆に、少し勉強すれば実現できるようなものでも「すごい物」に見えることはある。つまり、「自分には実現できない物」だと勝手に決めつけてしまう。そういうことは、結構ある。「努力できることが才能」という言葉は確かに一理あるけれど、あまり拡大解釈しすぎるのは良くない。「ちょっと調べればできることを調べられること」まで才能ということになってしまう。それだって「努力」には違いないからである。

そうした無知の壁とでもいうべきものを取り払う。それだけでも世界の見通しはずいぶんと良くなる。幸い、ぼくたちにはインターネットがある。基礎的な知識や技術の上に積み重ねる情報には恵まれている。もし基礎的な知識や技術すら習得する気がないなら、そもそも「凹む」必要なんてない。それが、あなたの目指したいものであるはずがないからだ。ともあれ、知り、試すことで、「すごい物」が「目指せる目標」になる可能性は、多分にある。あとは、やるかやらないか、やりたいかやりたくないか、といった辺りの問題だろう。そういう気持ちまで才能とは呼びたくない。

それでも残る凄さはある。「脳や身体の異常発達など先天的な能力に由来する凄さ」や「発想力や創造力の凄さ」といったものは、ちょっとなんとかしようと思って身に着く凄さではない。運にも大きく左右されるだろう。時代に愛される才能というようなものもあるはずだ。才能とタイミングは密接な関係にあるとぼくは思っている。現代なら稀代のギタリストになり得る才能を持った江戸時代人はいたかもしれない。そうした運をも味方につけ、常人の理解を超えて頭角を現す人というのはいる。天才といってもいい。それは、けれども、目指すべき凄さではないだろうと思う。

問題は「気の遠くなるような時間や労力の積み重ねで得られる凄さ」かもしれない。たとえば、カンバスに思い通りの直線を引く訓練を毎日5時間5年間続ける。たとえば、目にしたあらゆるものの形を正確に写し取る訓練を死ぬまで続ける。たとえば、頭に思い描いた色を無意識レベルで筆先が作り出してしまうくらい彩色技術に精通する。そうして得られた技術は確かに「すごい物」だと思う。けれども、「自分には実現できない物」という定義には、必ずしも当てはまらない。これがいわゆる「努力できる才能」だと思う。ここで「凹む」だけの人はやっぱり才能がないんだと思う。

いずれ何かを目指すなら、その凄さを支えるものが何かをまず知るべきだろう。その何かをすべて「才能」とひと括りにして諦めるのは怠慢だ。怠慢がいけないというのではない。自分には才能がないと愚痴るのも勝手である。ただ、無自覚にやっているなら、気持を改めてみるのも悪くはないと思う。「すごい物」を見たなら、その凄さを知る努力をする。それで自分がすべき「適切な努力」が見えてくるかもしれない。効果的に努力するためには、まず努力の仕方を見極めるべきだ。対象を知らずして「正しい努力」はなかなかできない。敵を知り、己を知ればなんとやら、だ。

まあ、こんなことをなんら頭角を現していないぼくが書いても説得力はないだろうけれど。

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