サヨクと非コミュは相性が良い

この人によるとサヨクは対話の彼岸にあるのだという。

左翼というのを、なにか誤解してる人がいるんじゃないか - 日毎に敵と懶惰に戦う

大雑把にいえば、決してブレない「自分ルール」を持った人ということだろうか。実体としては、サヨク共通のルールすら希薄に見える。要するにサヨクというラベリング自体、来歴を仄めかす以上の意味はないんだろう。そして、自分ルールなんだから当然他者と共有なんてできない。偶然、似たような志向の人と共闘できる可能性はあるかもしれないけれど、対話によってその規範を共有しようという意思はない。たとえば無自覚な差別意識によって自縄自縛に陥ってる人がいても、啓蒙によって自縄自縛を解くことはサヨクの役割ではない。ただ、差別を非難するだけである。

普通、論理思考というのは「正解のない前提」から発する。世の中の多くの事象に「正解」なんてないのだから、これは当たり前である。ある前提の確かさを論理的に証明することは、たぶん、できない。その「正解のない前提」にサヨクは「自分ルール」を代入する。そして、その前提を疑うことはしない。それをしていては、サヨクにならない。仮にサヨクの人が「前提を疑え」なんていったのだとしたら、それはおそらくサヨクという立場を離れて個人的に対話や啓蒙を試みている証拠である。リンク先にあるようなサヨクが彼らの本来の姿であるなら、そういうことになる。

こうした特性は他者と上手くコミュニケーションが取れない、いわゆる非コミュのそれとよく似ている。根本が「思想」か「性格」かという違いはあれ、どちらも他者のコードを自分の中に取り込まない、或いは、取り込めないせいでコミュニケーションが成立しないという一面を持つ。その意味で、非コミュとサヨクは案外相性がいいのかもしれない。個人の行動原理となる「思想」と「性格」は、おそらくまったく別個に個人の中で整理されているわけではない。だとすれば、非コミュはサヨクとして生きることで、社会の中に自分の居場所を確保できる可能性が高いかもしれない。

「自分ルール」を叫ぶだけで対話が成立しない存在は、主体的ではあっても社会的とはいい難い。ただ、サヨクは思想だから主張自体は強く社会性を帯びている。自然、周囲が社会的存在として扱ってくれる。酷く受動的ながら、ちゃんと社会の中に居場所を確保できる。もちろん、個人としては積極的に社会参加しているサヨクもいるだろうし、そこに本来サヨク的ではない連帯が生まれることだってあるだろう。こんな書き方は不遜だと非難されるに違いないけれど、非コミュで身動きが取れなくなってる人がいたら、とりあえずサヨクでもやってみたらどうかと個人的には思う。

もちろん「サヨク=非コミュ」なんていうつもりはないし、乱暴な想像だとも思うけれど。

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comment - コメント

「日毎に敵と~」の人;あいつらは宗教だからさ。でも社会のバランス的にああいう万年野党みたいな連中も使いでがあるんだよ。

―という理解で、いいのだろうか? え、それだけ? というか何か、ソビエトも自民党も磐石(のよう)だった、
私の子供の頃に日共や社会党について大人が言ってたことのような、すごい懐かしさが。

リリコ:今なら使い道はそれだけじゃないね。なんならいっそ、そこに入ってしまえばぴったり来るピープルがいるよ。

―で、い・いいのかな? それはなんだかどこまでがレトリックなのかある種の皮肉なのか、どうも「真意」が読めませんでした。

かつて学生運動がモラトリアムを引き受ける「学校」だったけど、いまそれに替わるものがない…みたいなことを
呉智英さんか誰かが言ってたのを聞き覚えあります。
「負け組」の「右傾化」の必然という主張もまたひとつトピックとしてありましたが、そのあたりとはまた別の次元での話なのかな。

あるいはサヨクと左翼の違いというあたりに―わたしはたいていおおざっぱにしか考えないからそのへんの違いも明快に言語化できるほどには認識してないんですが―理解が追いつかなくなるポイントがあるのやも。

決して「俺にでも噛まずに飲み込めるようにそっちが噛み砕いて説明しろ!」ってことじゃないですのでお手を煩わされませんように。

> nさん
まず最初に、これは特に皮肉を意図していません。サヨクをあのように定義する限り、彼らはただ主体的なだけの人畜無害な存在ということになりますし、皮肉ったり批判したりすべき対象でもないのだと思います。なにしろ誰かを変えることも変えられることも意図しないわけですから。なので、このエントリーは本当にただの思い付きを書いたまでで、それ以上でも以下でもありません。これが腑に落ちる人はたぶん少数派でしょう。とりあえず、独りで身動きがとれなくなってる人は、自分に何か新しいラベルを貼ってみるのも一興だろうとは、結構本気で思っています。そして、たとえば建築玄人にWebプログラマーとか向いてるんじゃないのと勧める程度の意味合いで、非コミュにサヨクを勧めているだけで、まったく深い意味はありません。…って、説明不要だといわれているのについ説明口調になってしまいました。

いや、すいません。どうも寄り目になってましたが、
政治や宗教「団体」には強烈なアレルギーを持ち、
自分「たち」はあくまで醒めた観客だ、という主観的ポジションを意識しながら
一方で非モテだの非コミュだのっていうごくとらえどころのないタグ付けを自分に施すにはもとより抵抗のない、
そういう連中に「とりあえずサヨクでもやってみたら」はおもしろいそそのかしだと思います。
コンセプトとして。

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