ネットサヨクの言葉が虚しく響くとき

ネットサヨクについて狭い観測範囲ながら、常々感じていることを書いておく。

ぼくは26歳までフリーターで、さしたる夢も自信もなく、といって将来のための努力もせず、渋々重い腰をあげて運良く採用された会社に入り、幸運を自覚しながらもその会社のありようが性に合わず2年で退職し、知人のツテで一時アルバイトに返り咲き、今は細々とサラリーマンをしている。食い詰めるほどの薄給ではないけれど、それはただワープアではないという程度に恵まれているにすぎない。少し前の流行言葉でいえば負け組というやつだろうし、格差社会の下半分に含まれていることは疑いようもない。ネットサヨクというのは、本来そういう人の味方なんだろうと思う。

彼らはインテリだ。書かれる文章は大抵小難しい。背景を知らないと正しく読めない主張や、学術的な思考力を要求する議論も少なくない。そして自らの言葉を解さず、誤読する人たちを冷笑的に、或いは、痛烈に罵倒する。けれども、そうやって罵倒される馬鹿な人たちこそが、本来ネットサヨクの思想によって救われるべき、搾取され差別される社会的弱者である可能性は高い。ぼくも一度ならず彼らの文章を誤解しては、馬鹿にされたり皮肉られたり叱責されたりしている。これからもするかもしれない。お陰で、最近は少しずつ彼らの主張が読めるようになってきたと思う。

少し前に「派遣村を叩いてるのは多分貧乏な下流の連中だよ」というエントリーが一部で注目を集めていた。そこに見られる派遣村に対する反感は、おそらくネットサヨクの言動にも向けられ得るものだと思う。仮にあの母親が深くネットにコミットし、その思いの丈を吐き出していたらどうだったろう。おそらくネットサヨクによるネガティブな攻撃に晒されたのではないか。ひと昔前なら「頭が悪い」やら「死ねばいいのに」といったネガコメやネガタグで一杯になったかもしれない。それは対話と呼べるようなものではないし、とても正常なコミュニケーションは期待できない。

ネットサヨクの思想は、こんな「母親」をこそ救うはずのものだろう。けれども、救うべき相手にその言葉は通じないし、そもそも対話の意思が欠けているようにも見える。もちろん、実際に差別し搾取する側に自覚的に加担して、ネットサヨクと侃々諤々やり合っている人もいると思う。けれども、無知蒙昧の故に自ら進んで差別に加担し、自ら搾取構造を強化してしまうような自覚なき被差別者、自覚なき被搾取者たちこそネットサヨクが救うべきボリュームゾーンなんじゃないかと、ぼくは思う。そんな馬鹿な弱者たちを罵るのみで、啓蒙しようとしない理由は何なんだろう。

育成環境に恵まれず、ネットもろくに使えない情報弱者であり、当然のように学も財もない。そんな人の目には、ネットサヨクなどインテリが貧乏人の真似をして分かったようなことをノタマッテいるようにしか見えなくて不思議じゃない。たとえば、(こんなところで名前を出して申し訳ないけれど)はてな界隈で有名なy_arim氏のように、東大まで行った末に食うや食わずのアニメライターをしているなんていうのは、むしろ反感の的だろう。彼なんかはかなり対話する姿勢が強い自称サヨクだと思う。それでもやっぱり、彼の言葉が届くべき相手に届いているとは思いにくい。

ぼくがネットサヨクに共感し切れないのは、そんなイメージを持っているせいでもある。

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「はてな」がまさにそうだけど、小難しいこと言いたいだけなんだよ。自分に酔ってる奴が多い。結果、現実の問題からどんどん遠ざかってる。

かつて学問のすすめを書いた福沢諭吉は、友人から「私は天下の賢人に向かって書いているが、貴方は誰に向かって文章を書いているのか?」と訪ねられた時、「私は猿でも分かるように書いている」と言いました。
結果、学問のすすめは大ベストセラーとなり、下手な教科書や演説よりも、国民に勉強することの大切さを説くことに成功しました。


何となく、そんなエピソードを思い出しました。

私としては「あの人たち」とでも表現しておきますか、
あの人たちって大抵そこそこの、あるいは相当な知識とインテリジェンスを持ち、当たりもごく柔らかく
かつ、いまの世相にあわせてそれなりにアップデートされてるかのようにも見えるもんですから
あるいは「いま、リベラルがおもしろい」のかもしれない、なんて、
ちょっと寄って行って話しかけたりなにしたりしてみたのだけれど、

全然がっかりでしたね。バージョンアップされてる風なのはほんの表面だけで
ちょっと話が彼らの教条に触れそうになると、掌返したように昔ながらの「党派的人間」のヨロイをかぶっちゃう。
あるいはオタク的に内輪でかたまっちゃう。
地方大学の門前にいまだにトロ字のタテカン出してるご奇特な連中と、実は何もかわらない。

かんがえてみればあたりまえの話で、結局「思想」はインターネットの草の根からなど出て来はしない。
結局凡人は誰かの受け売りをするしかないんで、
彼らの思想を内部から改革して現代にアジャストさせたひとりの大立者というのがどこにも居ない以上、あとは推して知るべし。

階級闘争を指導する立場のインテリゲンちゃんのボンボン暮らしと、本当に困窮してる民草の現実の乖離ぶり、
なんていう、そもそもの最初からの懸案すらが、
解消されるどころかただ道具立てをインターネットに替えていまに繰り返されているのも道理と思われます。

「賢い人は難しいことを易しく説明できるが、愚かな人は易しいことも難しく言う」
という主旨の、警句ふうのネットでの流行り言葉があり、
私はこれの出所をずっと知りたく思っていたのですが、その福沢諭吉のエピソードは「もしや」と思われます。

もちろんこんな言葉は知的劣等感に凝り固まった人が振り上げるカッターナイフであり
福沢諭吉の話は、嫌がる馬子をおどしつけても馬に乗せたとかいう逸話同様、現代人が真に受けてよいものではないですよ。
当時という時代の現実に、ある意味迎合した方便ですので。

> 匿名さん
仰るようなタイプの人もいるとは思いますが、なんとなくそうじゃない人も結構いそうだなあという気はしてるんですよね、個人的な感触としては。だからこそ歯がゆい部分があったりもするわけですが、かといって、ぼくに何ができるかとわれると黙り込んでしまう。まあ、ぼくがヘタレなだけともいえますが。

> ATMさん
『学問のすゝめ』にはそんなエピソードがあったんですね。知りませんでした。過去の積み重ねを前提とするある種の思想は平易に語れば良いというものでもないでしょうから、そのまま今回の話に引き写すことは難しいと思うのですが、どこか重なり合うところもありそうな話ではありますね。

> Nさん
ぼく自身は、過去にも現在も(思想的な意味での)活動家との個人的な付き合いもなく、また、それほど熱心に観察してきたわけでもないので、彼らに対する全体観みたいなものはまるで持ってないんですね。なので、仰るような評価がどこまで現状を補足して得ているのかはぼくはには分かりません。ただ、「インターネットの草の根から」は出てこないのだとすれば、今、「思想」と呼べるようなものはどこで育ってるんでしょうかね。個人的には、ネットがある種の思想の温床になる可能性はまだあるんじゃないかとも思っているんですが、一方で、現代においては全体主義的なまでの単一思想というのはそもそもあり得ないんじゃないかという気もしています。正直なところ、それがあることが良いとも思えませんし。確固とした見解を持たないせいで、ずいぶんとどっちつかずなコメントになってしまって申し訳ないのですが…。

 自称左翼を見ていて感じるのは、知に溺れてるって事。
日常会話ではまず耳にする事の無い
社会学や哲学などの単語を羅列して、
わざわざ話を難解にするのは、反論させないために
他者を煙に巻くためなのかね?
馬鹿に思われたくないって気持ちが強い人種なのかも。

ネット上での彼らの文章や振る舞いを見ていると、
左翼を標榜しているけれども、実は弱い立場の人間の事は
何とも思っていないようだね。
それより自分の価値観・知的自尊心の方が大切みたい。

自分と考えの違う者に対して、「頭が悪いと」馬鹿呼ばわりで
片付ける自称左翼連中には、はてな村の中だけに
留まっていてもらいたいものです。

私もチビタ君には、馬鹿呼ばわりされましたからね。
イヤな奴ら。

東大を出て企業や官庁に勤めず、敢えて三文文士の道を歩む
ギャップが、漢だと思っているのだろか?
思っているのだろうか?

「知的弱者」をバカと見下し差別し続ける左翼こそ真の差別主義者だ。
弱者に厳しい左翼に存在価値は有るのか。

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