「ワーク・ライフ・バランス」に代わる指針

結論からいえば、生産と消費のバランスではないか、といまのところ思っている。

よりよく生きるための指針として、ワーク・ライフ・バランスということが一時期よくいわれた。けれども、ぼくにはどうもしっくりこなかった。そもそもワークとライフはそう単純な包含関係でも、対立概念でもない。日常生活に含まれるものは仕事以外にいくらでもある。確かに、多くの労働者にとって仕事は人生の大半を占めるだろう。やりたくもない仕事に追われていると考える人は多いのかもしれない。およそ生きるためにやらざるを得ないことをやって人は生きている。が、だからといって仕事の時間を減らせばよりよく生きられるというのは、少し違うんじゃないかと思う。

そこで、人生におけるあらゆる行為を、仮に「生産行動」と「消費行動」に分けて考えてみる。決して「生産行動=ワーク」「消費行動=ライフ」ではない。いや、そう定義してもいいのだけれど、一般に誤解を生むだろうから、ここではあえて別物だといっておく。また、「生産」され「消費」されるのはモノばかりではない。有形無形の「価値」一般である。よってここでは、「生産行動」は「価値」を生む行為を、「消費行動」は「価値」の恩恵を受ける行為を意味する。そのうえで、充実した人生とは何かを想像してみる。問われるのは、おそらく「生産行動」の質ではないか。

思うに、「消費行動」だけで得られる満足はそれほど人を幸福にしない。消費の幸福感などは、所詮、消費中だけのものである。消費し尽くした途端に露と消えてしまう。たとえば、インターネットなど消費するだけの人にとっては、ただ便利なだけのものだろう。はてなもニコニコ動画も見ているだけで愉しむには限界がある。おそらく、そう長続きはしない。結局、インターネットが本当に楽しくなるのは、自ら生産する側に回ったときなんだろうと思う。たとえば言論で、或いは作品やサービスで、自分の信じる価値あるものを発信する。そこに手応えを感じると俄然面白くなる。

およそ「生産行動」というのは労力を伴うものだ。つまり、人は労力を惜しんだとてよりよく生きられるわけではない。「できれば働かずに生きたい」という紋切り型は、要するにその「生産行動」で生み出される価値が自分の価値観に合っていないことを意味している。たとえば、家事は家族に対して価値を持つ「生産行動」だし、子育ては家族に対しても社会に対しても人類に対しても大きな価値をもつ「生産行動」である。その価値を共有できる人にとっては生き甲斐たり得るだろうし、より良く生きる糧ともなろう。が、共有していない人にとっては苦役の類でしかない。

つまり「生産行動」の質は個人の価値観に依存する。それを自覚すると、働くということへの観点が少し変わるかもしれない。さらに、学生時代の勉強と社会人生活における仕事の違いも明確になる。勉強や学習と呼ばれるものは「消費行動」であり、仕事は「生産行動」である。ここからもわかるとおり、「消費行動」はときに「生産行動」の礎となる。その意味でもワーク・ライフ・バランスなどではなく、生産と消費のバランスこそが大事だと思うのである。自ら信じる価値の積極的な消費は、生産のためのインプットにもなり得る。「消費行動」の質と「生産行動」の質は繋がる。

幸せを求めて漫然と消費ばかりを追いかけるのは、おそらく相当に割りが悪い。

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comment - コメント

「労働と余暇」のバランスというものさしは
一日休めば釜の蓋が開かないような「庶民」があった時代にはそのままキレイに通用したけれども…

そこでたとえばこのように、字義通りよりはやや含みを持った意味での「生産と消費」といったアングルを設定してみるのも有意なこととは思われますが

その上でQOLとか生き甲斐とか「承認」だとかいう話を始めてみるとすれば
とたんに(おそらくは)えらく陳腐な話に回収されていまいがちなのが難しいところかと思います。
歴史的に、あるいは地球規模で言えばどうしても豊かではある社会で「格差問題」を語ることは、
どうもつい抽象的な格差「意識」ばかりを再生産する「格差問題問題」にしかなってない場合が多いよなあ、と…

やや余談ながら「インターネットが本当に楽しくなるのは、自ら生産する側に回ったときなんだろう」
というのは、かってにこのブログのコメント欄でネットの議論はつまんねえ、と愚痴を書き付けているわたしとしては耳が痛いですね。
ひまつぶしという「消費」ばかりが超過で、主体的なアウトプットがないからつまんないのはあたりまえであると。まさに。

まあつまり、私がかってに持ち出した格差社会どうこうじゃなくて
ただじぶんごとをとっくり考えるために「価値の生産」の「質」というコンセプトをひとつおいてみてはどうか、ってことですよね。
なんとなくよく言われてることのようで、そういうはっきりしたキーワードに照らして自己点検してみるのはじっさい必要なことなんだろうと思います。

初コメントです、失礼します。いつも楽しく拝見して、lylycoさんの生み出した価値を消費させて頂いておりますw
人生を消費行動と生産行動に分けるという視点、大変面白く感じました。
「生み出す(与える)喜び」が人生の充実に重要だ、というようなのは実際よく耳にする言葉ですが、それを生産行動という概念を意識して捉えることで、何かと物事を楽しめるようになりそうです。
ためになりました、ありがとうございました。

> Nさん
まさしく、よくいわれていることですね。結論そのものも陳腐なものだと思います。ただ、陳腐だから自分が消化できているとは限らないわけで、このエントリーなんかはそうしたありふれた話を自分なりに整理し直して言葉にしてみただけ、といった感じでしょうか。それが、ぼく以外の誰かにとっても飲み込みやすいかどうかは、当然分からないんですけれども…。

> stemさん
世間でよくいわれていることや特に新しくもない考え方でも、改めて自分なりに考えてみて自分なりの言葉に置き換えることで腑に落ちるということがままあります。まあ、場合によってはただの言葉遊びに見えるかもしれませんが、そこから得られる気付きが少しでもあればいいのかな、と。そんな風に思って書いていたりもするので、ためになったといってもらえるのはとても嬉しいですね。こちらこそ、ありがとうございます。

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