デザインは好み…だけのはずはない

ぼくの場合、装丁は多少なりとも購買意欲に影響する。

誰が講談社現代新書を殺したか - 404 Blog Not Found」の大意は、タイトルだけで分かる人には分かると思う。ぼく自身、装丁がリニューアルされてから講談社現代新書はめっきり買わなくなった。きっと有意義な本もたくさん出ているのだろうけれど、何故か目がいかなくなってしまったのである。ぼくは本を買うとき、何を買うか決めていることは案外少ない。書店で適当に物色する。だから、著者や書名と共に、装丁や帯も重要な判断材料になる。大抵は最後に触りくらいを立ち読みして購入を決める。書名と装丁が好ければ読まずに買うこともある。

だから、本の品質には装丁や版型や組版など目に入るもの、触れられるものすべてが含まれているとぼくは思う。その意味で講談社現代新書のそれは、好みの問題を越えて改悪だったんじゃないかと思っている。先のエントリのコメント欄でもあの装丁は酷いという意見が多い。ぼくもこそっとコメントしている。もちろん反論もあるんだろうなと暫く観察していると、やっぱり出てきた。およそ予想通りだったのは「デザインは好み」というものと「本は読めればいい」というもの。どちらも、それだけ聞けばまあ間違った意見というわけではない。

ただ、どちらも同じように現実的ではないとも思う。それは極論である。デザインには好みの側面もあれば機能的な側面もある。たとえば紙がやたら薄くてツルツルでめくりにくい本なんていうのはダメである。パッと見て誰の何て本なのか分からないなんていうのも特別な狙いがない限り良いデザインとはいえない。それに、好みの問題にだって程度はある。100万人に1人くらいしか良いといわないデザインは、やっぱりダメだろう。少なくとも商業デザインとしては。実際のところ、iPodがあれだけ売れているのは、たぶんデザインの力も大きい。

それに、本好きというのは必ずしもテキスト情報だけが好きなわけではない。「本は読めればいい」という人は、「服は着られればいい」とか「飯は食べられればいい」とかいっているのと同じである。もちろん、そういう人もいるだろうけれど、それを一般的と考えるのは無理がある。しかも、小飼弾氏のエントリは「本好き」の視点で書かれているのである。本好きならたとえ芥川龍之介が青空文庫で読めると知っていても本を買う。テキストのダウンロード販売がある程度普及してもわざわざ本を買う可能性が高い。本好きというのはそういうものだろう。

その意味で、多くの本好きの不興を買った講談社現代新書の失敗は小さくない。

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